に掛ける事は一通りや二通りで無い。死者もその間は死恥《しにはぢ》をさらさぬ譯にはゆかぬし、死者の遺族などは重々困難の立場に立つ譯だ。自殺は人の勝手のやうなものだが、華嚴飛び込くらゐ智慧の無い、後腐《あとぐさ》れの多い、下らない死方《しにかた》は無い。生を否定してゐるに近い佛教ですら自殺は禁ぜられてゐて、釋迦存生當時厭世觀の極點に立つて、獵師であつたものに自分を殺させた者、その他の自殺をはかつた者等が釋迦の彈呵《だんか》を被《かうむ》つたことは記録に明らかである。西藏《チベツト》や印度の蒙昧信者が身を棄てる如きも誰か今日之を是認しよう。まして宗教的からでも何でも無い、詰らないことから自殺しようとして華嚴を擇ぶ如きやからには、自分の權利も何も有るものでは無い。特《こと》に華嚴をえらぶ如き下らぬわがまゝを許せる理由が何處《どこ》に有らう。涅槃《ねはん》の瀧といふのが何處かに有つたら知らぬこと、華嚴は高華偉麗の世界である、白牡丹花に蟻の這ひ上るのはまだしも許し得るとしても、華嚴に汚穢《きたな》い馬鹿者の屍體を晒《さら》さうといふ場席は無いわけだ。華嚴行願には火の中へ飛び込んで清凉世界を得る談は
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