では無かつた。その鶴嘴《つるはし》を手にしだした時はすでに六十三歳であつたが、せかず忙《いそ》がず、毎年々々コツ/\と路を造つた。七年の歳月は過ぎた。明治三十三年に至つて路は成就した。それが即ち今の路である。三十三年以前は瀧壺へは下りられなかつたが、徑が出來てから世人は華嚴を十分に觀賞するを得るに至つたのである。耶馬溪《やばけい》も昇仙峽《しやうせんけう》も、これを愛しこれを開く人が有つてから世にあらはれるに至つたのである。華嚴も五郎兵衞老人を得てから愈※[#二の字点、1−2−22]その美を發したのである。瀧の神も吾人も五郎兵衞老人に滿腔の謝意を致さねばならぬ。
五
對岸の高處に明智平《あけちだひら》といふのがある。馬返しからそこを經て中禪寺へケーブルカー敷設の企てがある。それが成就すれば、八分乃至十二三分で馬返しから中禪寺へ行く事が出來るやうになる筈であるとのことだ。五郎兵衞老人の工事は誠意と勇氣との自力で出來たのだが、この工事は資本と巧智との衆力で出來るのである。出來上つた上はいづれも感謝に値するが、ケーブルカーの工事が勝景の風致の上に十分の考慮を拂つて施行されんこと
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