る傾斜もない野を知らず識らずに上つて戰場ヶ原にかゝる。古は湖底か沮洳地《そじよち》ででもあつたかと思はれるのが戰場ヶ原である。可《か》なり濶い面積の平野に躑躅や山菖蒲が咲いてゐて高原氣分を漂はせてゐる荒寞の景が人を襲ふが、此處《こゝ》は雪がまだ山々にむら消《ぎえ》むら殘りの頃か、さなくば秋の夕べの物淋しい頃が、最も人に浸《し》み入る情趣をもつところで、日光や中禪寺の人々が「歡《よろこ》びの花」といふよしの躑躅花(この花が咲けばやがて多くの遊覽者が入込んで土地がにぎやかに潤ふ)が咲いてゐる、今はむしろ特有の持味を漲《みなぎ》らせてゐないのを遺憾とする。
 車はやがて湯元に着いた。湯の湖《うみ》は左手にその幽邃味の溢るゝばかりなすがたを、沈默のうちに見せてゐる。湯元は山奧の突き當りのやうな感じのする地であり、古風の湯宿と今樣《いまやう》の旅館とが入り交つてゐる温泉《ゆ》の香《か》の高い小さな村であるが、何となく人をゆつたりと沈着《おちつ》かせてしまふやうなところが、實際山奧の湯村の氣分でもあらう。
 一浴して晝餐を取ると、村の人々が東京日日に對する好感を表示して訪うてくれた。その人々に擁されて、特《こと》に仕立ててくれた手※[#「戔+りっとう」、第3水準1−14−63]舟《てこぎぶね》二隻に分乘して、湯の湖を廻つた。湖は中禪寺湖より遙に小さいが、周圍の樹木の鬱々と茂つて、その枝も葉も今|將《まさ》に水に入らんとするほど重げに撓々《たわ/\》に湖面に蔽ひかぶさつてゐるところや、藻の花が處々に簇《む》れ咲いたり、杉木賊《すぎとくさ》といふ杉菜の如く木賊の如き一種の水草が淺處にすく/\としてゐたりするさまは、まるで繪の如く小じんまりしてゐて、仙人の庭の池では無いかと思はれるやうな氣がする。南岸には石楠花《しやくなげ》が簇生してゐて、今は花はすがれてゐるが、花時の美しさは思ひ遣られる。兎島といふ半島的突出の北部の灣形に入り込んだところなどは、何樣《どう》見ても茶人的の大庭の池の甚だ寂び古びたやうな感じで、幽雅愛すべきである。この景色を取入れて別莊を設けた人の無いのが不思議な位である。

    七

 三十七八年前になる。自分は湯元から金精峠《こんじやうたうげ》を越えて沼田の方へ出たことがあるが、今はその頃よりは甚だ開けて、西澤金山などがその後開けたために、又群馬の方の菅沼等も遊覽地になつたために、道路は北へも西へも通じてゐて、實際に突きあたりの地では無くなつたのである。しかし自動車で行ける路でも無いので、昔日の健脚、今の寢足《ねあし》、しかた無いからまた中禪寺へ歸つた。
 湯瀧は湯の湖より落つる水である。たきといふ語の通りに、眞白になつて岩の傾斜面をたぎり落つるのである。兒童《こども》のすべり臺を水が落ちると思へば間違ひはない。今に遊戲的にこの瀧を落下する設備をする人があるかも知れない、といふのは戲諢談《おどけばなし》だが、ほんとにさういふことをしたら、可なり突飛なことの好きな人を滿足させ得るだらう。
 車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖水なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然《ふと》見る湖岸に漣波《さゞなみ》が立つて赤腹といふ小魚が群騷いでゐる。産卵のために雌魚雄魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「クキル」とこれをいふ。北海道では今、群來の二字を充《あ》てるが、古は漏の字を充てゝゐる。鯡《にしん》のくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆、かずの子を以てかずの子|鍍金《めつき》をされてしまふ位である。今雜魚はその生殖期の特徴たる赤い線を身側に鮮かにして、騷ぎまはつてゐる。と見るや否や土地の人は忽ち車を止めさせた。人々は渚《なぎさ》に歩み寄つて、各※[#二の字点、1−2−22]手取りにせんとした。安成子も早速に水の中へ手を突つ込んで首尾よく手づかみにしたのは、時に取つての無邪氣な餘興であつた。宿へ歸つて鹽燒にさせて、先生大得意で天賜の佳肴に一盞の麥酒《ビール》を仰いだところは如何にも樂しさうであつた。但しその魚の大さ三尺五寸也、十倍にして。
 十一日。人力車をやとひて馬返しまで下る。途中、かごの岩、屏風岩など、いづれも他所にあつては名を高くするに足りるものであると賞した。馬返しより自動車を頼んで日光へ下り、東照宮大猷廟《たいいうべう》その他は今囘は遙拜のみして、稻荷川を渡つて霧降の瀧へと向つた。瀧見臺の茶屋まで車で行ける樣になつてゐるので勞は無い。そこから細徑《ほそみち》を少し行くと、俄然として路は巖端《いははな》に止まつて、脚下は絶壁の深澗になり、眼前の對《むか》ひの巖壁に霧
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