降の麗はしい相《すがた》は見えた。華嚴は男性美、霧降は女性美、一は直條的、一は曲折的、一は太い線、一は纖《ほそ》い線、巖の樣子もまた二者の間に相應した差があつて、霧降の瀧の美しさは、瀑布の形容によく素練《それん》などといふ字を使ふが、素練などといつたのでは端的にその實《じつ》は寫し得ない。しなやかに細い多くの線をなして麗はしく輝やかしく落下《おちくだ》る美しさは、恰も纖く裂いた絖《ぬめ》を風に晒《さら》して聚散させたを觀るやうな感じである。雄偉は華嚴にとゞめをさす、妍麗は霧降を首位とする。わざ/\鑑賞するだけの價値は十分にある。
日光の美の中で、他にまだ看過《かんくわ》し難いものがある。それは街道の杉並木である。平泉澄氏の撰の東照宮志にこの並木の事は詳しく出てゐる。並木といへば何でも無いもののやうであるが、實に此も亦人の爲《し》たことの美しい一つである。で、今市までその並木の下を走らせて、わが國人の心の姿であり、神の愛したまふ相である正直其物の杉の樹蔭に、翠影甚だ濃く凉氣おのづから湧くすが/\しさを十分に味はつた。神路山《かみぢやま》の山路、日光の例幣使街道、春日《かすが》の參道、芳野の杉山、碇《いかり》が關《せき》の杉山、いづれも好い心持のところであるが、特《こと》に此處は好い。たゞ行末齒の脱けたやうにならぬことを望むのみである。
今市より北折して會津へ至る道も、神々《かう/\》しさは餘程缺けるが同じく杉並木が暫くは續く。田舍《ゐなか》びて好い路で、菅笠|冠《かぶ》つた人でも通りさうな氣がする。大谷川がもう恐ろしく發達して大きな河原になつてゐるのを越して、車はひた走りに大桑といふを過ぎると、頓《やが》て稀有なる好景に出會した。それは石壁の岸高きが下に碧潭深く湛へてゐる一大河に架《かゝ》つてゐる橋が、しかも直《たゞち》に對岸にかゝつてゐるのでは無く、河中の一大巨巖が中流に蟠峙《ばんぢ》して河を二分してゐる其巨巖に架つてゐるので、橋は一旦巖上に中絶した如くなつて後に、また新に對岸に架《わた》されてゐるのである。丁度東京の相生橋《あひおひばし》と同じやうな状であるが、其の中島が素ばらしい大きな一つ巖であるのが、目ざましくも稀《めづ》らしい景色をなしてゐる。自分は初めてこの路を通つたのであるが、こゝに差掛かると同時に、これが鬼怒川《きぬがは》の中岩であるなと心付いて車を止めさせた。舊い頃では橘《たちばな》南谿《なんけい》と共に可成り足跡《そくせき》が廣く、且又同じく紀行(漫遊文草)を遺した澤元※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《たくげんがい》が、この中岩を稱して、その上で酒など飮んでゐる事がその文によつて記臆に存してゐたからである。車を下りて靜かに四方を見ると、鬼怒川が北から來つてこの巖にせかれて、分れて深潭をなし、※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]廻《えいくわい》して悠揚|逼《せま》らず南に晴れやかに去る風情はまことに面白く、兩岸の巖壁沙汀のさまも好く、松や雜樹《ざふき》の畫意《ゑごゝろ》に簇立《むらだ》つてゐるのもうれしい。安成子は河原へ下り立つて寫眞を撮《と》つた。
八
中岩より以北の道路は水をはなれるので景色は平凡になる。中岩の奇は平凡の中に突として奇をほしいまゝにしてゐるので愈※[#「二の字点」、1−2−22]妙なのである。しかし鬼怒川の兩岸は、中岩以北も相當に太古よりの秋霖春漲に洗ひ出されて巖壁を露《あら》はしてゐることだらう、隨つて細《こま》かに川筋を見たら美しいところもあるだらうと思はれる。
車は高徳、大原を經て、遙に左方對岸に鬼怒川發電の設備を見、それから鬼怒川に架つてゐるよぼ/\橋を渡りかゝつた。橋上の眺めは左右に岸壁を見、白沫立《しらあわだ》つてたぎり流るゝ川に臨むのであるから、緑蔭水聲、おのづから兩袖に清風を湧かす概があつて、名も餘り高く無いところだが、小じんまりして溪谷美のあることを感じさせられる。橋を渡ると下瀧温泉の旅舍があつて、溪《たに》に臨んで樓を起してゐる。われ等は此處の草分の麻屋といふに投じて晝餐を取つた。
樓上の一室の欄に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]ると、溪は目の下に白くなり碧くなつて流れてゐる。水聲は中々激しくて、川といはうよりは瀧といつた方が好い位であり、成程「瀧」といふ地名も名詮自性であると首肯《うなづ》かせた。下瀧より少し上に河一體が大瀧になつてゐるのが眞白に見えて、そこより上は上瀧と小名《こな》に呼ぶところだ。川上は高原、鷄頂の諸山が聳えて、海拔はさほどに高いところでは無いが山懷の窄《せま》いところを鬼怒川が怒流してゐるので氣流の加減によつてか、他處では雨が無かつたのに、聞けば毎日雨があつたといふことで、この
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