華嚴瀧
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安成子《やすなりし》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何八景|彼《かに》八景

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#「晉+戈」、第4水準2−12−85]

 [#…]:返り点
 (例)金華《きんくわ》開[#二]八景[#一]《はつけいをひらく》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    一

 昭和二年七月の九日、午後一時過ぐるころ安成子《やすなりし》の來車を受け、かねての約に從つて同乘して上野停車場へと向つた。日本八景の一と定められた華嚴《けごん》の瀑布及びその附近景勝遊覽のためであつた。
 二時五分の日光直行の汽車はわれ等二人を乘せてはしり出した。車窓の眺めは例によつて例の如しであるから退屈の餘りの時間を雜談に消すほかはなかつたが、安成子は職分に忠實なので、しきりに八景論を提出して老人の談話《はなし》を引出さうとつとめる。景勝などといふものは論談の對象にするには聊か宜し過ぎるものであつて、山にしろ、水にしろ、たゞこれに打ち對つて怡然《いぜん》として神《しん》喜び心樂めばそれで宜《よ》いので、甲地乙地の比較をしたり上下をしたりするのは第二第三の餘計な事で、眞にいはゆる蛇足を畫《ゑが》くものであるから、ナアニ八景は勿論好いサ、二十五勝もまた勿論好いサ、百景の中へ入れられた地にも中々好いところが有るのサ位に片づけてしまつても、それでは先生承知しない、風景論の投繩を頻《しきり》に投げ掛けて、野馬的に勝手氣隨に奔逸したがる老人の意馬の頭《かしら》を主要問題の方に向はせようとする。とう/\八景の談《はなし》に引張りこまれてしまつた。
 一體八景といふのは隨分長い間の流行《はやり》言葉であつて、何八景|彼《かに》八景、しまひには吉原《よしはら》八景、辰巳《たつみ》八景とまで用ゐられて、ふけて逢ふ夜は寢てからさきのなぞと、イヤハヤ途轍《とてつ》も無い邊にまで利用されるに至つたほどであるが、最初はこれも矢張り支那文學美術すべて支那影響を受けた頃に起つたことである。八景といふ字面《じめん》は唐《たう》あたりからある、イヤ景色に八ツを取立てゝいつたのは南齊《なんせい》の沈約《しんやく》の八詠樓など、或はもつと古いところにあるか知らぬが、金華の元暢樓に沈約が八篇の詩を題してその景色をほめたところから、後に八詠樓と人が呼んだ。李太白が金華《きんくわ》|開[#二]八景[#一]《はつけいをひらく》と吟じたのも即ちその八詠樓の事で、任華といふ男が太白に寄せた詩に、八詠樓中|坦腹《たんぷく》にして眠るといふ句のあるのも、即ち同じその元暢樓をいつたのである。又たゞ單に八景といふ字面は別にあるが、それは三元や三聖といふ言葉と對になるので、景色の事では無い、黄庭内景などといふ景の字と同じ意味に用ゐられたもので、人の身體に上部中部下部の八景がある。上部の八景は腦、髮、眼、耳、鼻、口、舌、齒であるといふのであつて、道家《だうか》の語である。そんなことはどうでもよい。が、古い詩の句の八景といふのは、この道家の語の八景を知らぬと解がとゞかぬやうになる。今の何々八景といふのは、白石《はくせき》手簡《しゆかん》に八景のはじめは宋人か元人かにて宋復古と申す畫工云々とあるが、それは夢溪筆談に出てゐる度支員外郎|宋迪《そうてき》の事で、平沙《へいさ》落雁《らくがん》、遠浦《ゑんぽ》歸帆《きはん》、山中《さんちゆう》晴嵐《せいらん》、江天《こうてん》暮雪《ぼせつ》、洞庭《どうてい》秋月《しうげつ》、瀟湘《せうしやう》夜雨《やう》、煙寺《えんじ》晩鐘《ばんしよう》、漁村《ぎよそん》夕照《せきせう》、之を八景といつて得意の畫であつたといふのである。後の八景といふのがこれに基《もと》づいてゐることは疑はれない。美術天子の宋の徽宗《きそう》皇帝が、張※[#「晉+戈」、第4水準2−12−85]《ちやうせん》といふ畫人をして舟に乘じて往いて山水《さんすゐ》の勝《しよう》を觀て八景の圖を作るやうに命ぜられたといふことも、傳へられてゐる談であるから、八景のはじまりは宋であつて、そしてその山水は平遠山水であつたことも疑はれない。
 我邦では東山《ひがしやま》の頃、玉澗《ぎよくかん》の八景の畫が珍重されて、それから八景々々といひ出されたのだが、その玉澗の八景が宋迪の八景から系統を引いたものであることも想像されるに難くない。それからその後|慶長《けいちやう》元和《げんな》の頃、京の圓光寺の長老がゆゑあつて
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