肆《しゅし》に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑《まじ》わり、おのれ亦《また》衛士の服を服し、弓矢《きゅうし》を執《と》りて肆中《しちゅう》に飲む。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]一見して即《すなわ》ち趨《はし》って燕王の前に拝して曰《いわ》く、殿下何ぞ身を軽んじて此《ここ》に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩《わがはい》皆護衛の士なりと。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]|頭《こうべ》を掉《ふ》って是《ぜ》とせず。こゝに於て王|起《た》って入り、※[#「王+共」、第3水準1−87−92]を宮中に延《ひ》きて詳《つばら》に相《そう》せしむ。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]|諦視《ていし》すること良《やや》久しゅうして曰《いわ》く、殿下は龍行虎歩《りゅうこうこほ》したまい、日角《にっかく》天を挿《さしはさ》む、まことに異日太平の天子にておわします。御年《おんとし》四十にして、御鬚《おんひげ》臍《へそ》を過《す》ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位《たいほうい》に登らせたまわんこと疑《うたがい》あるべからず、と白《もう》す。又|燕府《えんふ》の将校官属を相せしめたもうに、※[#「王+共」、第3水準1−87−92]一々指点して曰く、某《ぼう》は公《こう》たるべし、某は侯《こう》たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王|語《ことば》の洩《も》れんことを慮《はか》り、陽《うわべ》に斥《しりぞ》けて通州《つうしゅう》に至らしめ、舟路《しゅうろ》密《ひそか》に召して邸《てい》に入る。道衍は北平《ほくへい》の慶寿寺《けいじゅじ》に在り、※[#「王+共」、第3水準1−87−92]は燕府《えんふ》に在り、燕王と三人、時々人を屏《しりぞ》けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]は柳荘居士《りゅうそうこじ》と号す。時に年|蓋《けだ》し七十に近し。抑《そも》亦《また》何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子|忠徹《ちゅうてつ》の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶《なお》存し、風鑑《ふうかん》の津梁《しんりょう》たり。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]と永楽帝と答問するところの永楽百問の中《うち》、帝鬚《ていしゅ》の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書《ろうしょ》となすと雖も、尽《ことごと》く斥《しりぞ》く可《べ》からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著《あら》わすところ、今古識鑑《ここんしきかん》八巻ありて、明志《みんし》採録す。予《よ》未だ寓目《ぐうもく》せずと雖も、蓋《けだ》し藻鑑《そうかん》の道を説く也。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]と忠徹と、偕《とも》に明史|方伎伝《ほうぎでん》に見ゆ。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]の燕王に見《まみ》ゆるや、鬚《ひげ》長じて臍《へそ》を過《す》ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾《わ》が年|将《まさ》に四旬ならんとす、鬚|豈《あに》能《よ》く復《また》長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠《きんちゅう》というものを薦《すす》む。金忠も亦|※[#「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2−90−26]《きん》の人なり、少《わか》くして書を読み易《えき》に通ず。卒伍《そつご》に編せらるゝに及び、卜《ぼく》を北平《ほくへい》に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神《しん》となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦《け》を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意|漸《ようや》くにして固《かた》し。忠|後《のち》に仕えて兵部尚書《ひょうぶしょうしょ》を以て太子《たいし》監国《かんこく》に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。
帝の側《かたえ》には黄子澄《こうしちょう》斉泰《せいたい》あり、諸藩を削奪《さくだつ》するの意、いかでこれ無くして已《や》まん。燕王《えんおう》の傍《かたえ》には僧|道衍《どうえん》袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《えんこう》あり、秘謀を※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是《かく》の如《ごと》し、風声鶴唳《ふうせいかくれい》、人|相《あい》驚かんと欲し、剣光|火影《かえい》、世|漸《ようや》く将《まさ》に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝《ちょう》に聞ゆること頻《しきり》なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔《ちゅうせき》の東角門《とうかくもん》の言を憶《おぼ》えたもうや、と仰《おお》す。子澄直ちに対《こた》えて、敢《あえ》て忘れもうさずと白《もう》す。東角門の言は、即《すなわ》ち子澄|七国《しちこく》の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰《せいたい》と議す。泰|曰《いわ》く、燕《えん》は重兵《ちょうへい》を握り、且《かつ》素《もと》より大志あり、当《まさ》に先《ま》ず之《これ》を削るべしと。子澄が曰く、然《しか》らず、燕は予《あらかじ》め備うること久しければ、卒《にわか》に図り難し。宜《よろ》しく先ず周《しゅう》を取り、燕の手足《しゅそく》を剪《き》り、而《しこう》して後燕図るべしと。乃《すなわ》ち曹国公《そうこくこう》李景隆《りけいりゅう》に命じ、兵を調して猝《にわか》に河南に至り、周王|※[#「木+肅」、UCS−6A5A、279−3]《しゅく》及び其《そ》の世子《せいし》妃嬪《ひひん》を執《とら》え、爵を削りて庶人《しょじん》となし、之《これ》を雲南《うんなん》に遷《うつ》しぬ。※[#「木+肅」、UCS−6A5A、279−3]は燕王の同母弟なるを以《もっ》て、帝もかねて之を疑い憚《はばか》り、※[#「木+肅」、UCS−6A5A、279−3]も亦《また》異謀あり、※[#「木+肅」、UCS−6A5A、279−4]の長史《ちょうし》王翰《おうかん》というもの、数々|諫《いさ》めたれど納《い》れず、※[#「木+肅」、UCS−6A5A、279−5]の次子《じし》汝南《じょなん》王|有※[#「火+動」、279−5]《ゆうどう》の変を告ぐるに及び、此《この》事《こと》あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月《いくばくげつ》を距《さ》らざる也。冬十一月、代王《だいおう》桂《けい》暴虐《ぼうぎゃく》民を苦《くるし》むるを以て、蜀《しょく》に入りて蜀王と共に居らしむ。
諸藩|漸《ようや》く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍《ぜんぐん》都督府断事《ととくふだんじ》高巍《こうぎ》書を上《たてまつ》りて政を論ず。巍は遼州《りょうしゅう》の人、気節を尚《たっと》び、文章を能《よ》くす、材器偉ならずと雖《いえど》も、性質実に惟《これ》美《び》、母の蕭氏《しょうし》に事《つか》えて孝を以て称せられ、洪武十七年|旌表《せいひょう》せらる。其《そ》の立言|正平《せいへい》なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又《また》是《これ》一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍《ぎ》と御史《ぎょし》韓郁《かんいく》とは説を異にす。巍の言に曰《いわ》く、我が高皇帝、三代の公《こう》に法《のっと》り、※[#「贏」の「貝」に代えて「女」、第4水準2−5−84]秦《えいしん》の陋《ろう》を洗い、諸王を分封《ぶんぽう》して、四裔《しえい》に藩屏《はんぺい》たらしめたまえり。然《しか》れども之《これ》を古制に比すれば封境過大にして、諸王又|率《おおむ》ね驕逸《きょういつ》不法なり。削らざれば則《すなわ》ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親《しん》を親《したし》むの恩を傷《やぶ》る。賈誼《かぎ》曰く、天下の治安を欲《ほっ》するは、衆《おお》く諸侯を建てゝ其《その》力を少《すくな》くするに若《し》くは無しと。臣愚《しんぐ》謂《おも》えらく、今|宜《よろ》しく其《その》意《い》を師とすべし、晁錯《ちょうさく》が削奪の策を施す勿《なか》れ、主父偃《しゅほえん》が推恩の令《れい》に効《なら》うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権《けん》は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下|益々《ますます》親親《しんしん》の礼を隆《さか》んにし、歳時《さいじ》伏臘《ふくろう》、使問《しもん》絶えず、賢者は詔を下して褒賞《ほうしょう》し、不法者は初犯は之を宥《ゆる》し、再犯は之を赦《ゆる》し、三|犯《ぱん》改めざれば、則ち太廟《たいびょう》に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈《あに》服順せざる者あらんやと。帝|之《これ》を然《さ》なりとは聞召《きこしめ》したりけれど、勢《いきおい》既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満《みちみ》ちたりければ、高巍《こうぎ》の説も用いられて已《や》みぬ。
建文元年二月、諸王に詔《みことの》りして、文武の吏士《りし》を節制し、官制を更定《こうてい》するを得ざらしむ。此《こ》も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月|西平侯《せいへいこう》沐晟《もくせい》、岷王《びんおう》梗《こう》の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮|宗麟《そうりん》を誅《ちゅう》し、王を廃して庶人となす。又|湘王《しょうおう》柏《はく》偽《いつわ》りて鈔《しょう》を造り、及び擅《ほしいまま》に人を殺すを以て、勅《ちょく》を降《くだ》して之を責め、兵を遣《や》って執《とら》えしむ。湘王もと膂力《りょりょく》ありて気を負う。曰く、吾《われ》聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈《あに》能《よ》く僕隷《ぼくれい》の手に辱《はずか》しめられて生活を求めんやと。遂《つい》に宮《きゅう》を闔《と》じて自ら焚死《ふんし》す。斉王《せいおう》榑《ふ》もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王|桂《けい》もまた終《つい》に廃せられて庶人となり、大同《だいどう》に幽せらる。
燕王は初《はじめ》より朝野の注目せるところとなり、且《かつ》は威望材力も群を抜けるなり、又|其《そ》の終《つい》に天子たるべきを期するものも有るなり、又|私《ひそか》に異人術士を養い、勇士|勁卒《けいそつ》をも蓄《たくわ》え居《お》れるなり、人も疑い、己《おのれ》も危ぶみ、朝廷と燕と竟《つい》に両立する能《あた》わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王|※[#「木+肅」、UCS−6A5A、282−3]《しゅく》の執《とら》えらるゝを見て、燕王は遂に壮士《そうし》を簡《えら》みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容《ゆる》す能わず。たま/\北辺に寇警《こうけい》ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞《さい》を出《い》でしめ、其の羽翼《うよく》を去りて、其の咽喉《いんこう》を扼《やく》せんとし、乃《すなわ》ち工部侍郎《こうぶじろう》張※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《ちょうへい》をもて北平左布政使《ほくへいさふせいし》となし、謝貴《しゃき》を以《もっ》て都指揮使《としきし》となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》、曹国公《そうこくそう》李景隆《りけいりゅう》をして、謀《はかりごと》を協《あわ》せて燕を図《はか》らしむ。
建文元年正月、燕王|長史《ちょうし》葛誠《かつせい》をして入って事を奏せしむ。誠《せい》、帝の為《ため》に具《つぶさ》に燕邸《えんてい》の実を告ぐ。こゝに於《おい》て誠を遣《や》りて燕に還《かえ》らしめ、内応を為《な》さしむ。燕王|覚《さと》って之に備うるあり。二月に至り、燕王|入覲《にゅうきん》す。皇道《こうどう》を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史《かんさつぎょし》曾鳳韶《そうほうしょう》これを劾《がい》せ
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