きて京《けい》に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其《その》封国《ほうこく》を空《むな》しゅうして奸※[#「敖/馬」、UCS−9A41、268−4]《かんごう》の乗ずるところとならんことを虞《おそ》るというも、諸王の臣、豈《あに》一時を托《たく》するに足る者無からんや。子の父の葬《そう》に趨《はし》るは、おのずから是《こ》れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為《な》さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔《みことのり》は、果して是れ太祖の言に出《い》づるか。太祖にして此《この》詔を遺《のこ》すとせば、太祖ひそかに其《そ》の斥《しりぞ》けて聴かざりし葉居升《しょうきょしょう》の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚《はなはだ》しければ則《すなわ》ち間《かん》に縁《よ》りて起《た》たんに、之《これ》を防ぐも及ぶ無き也《なり》、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼《ああ》子にして父の葬に会するを得ず、父の意《い》なりと謂《い》うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦《また》疎《そ》にして薄きの憾《うらみ》無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中《あた》らん、而《しか》も実に人情に遠いかな。凡《およ》そ施為《しい》命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚《はなはだ》しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計《けい》は中《あた》るも、見《けん》は徹するも、必らず弊に坐《ざ》し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則《すなわ》ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年|高《こう》皇后の崩ずるや、奏《しん》王|晋《しん》王|燕《えん》王等皆国に在り、然《しか》れども諸王|喪《も》に奔《はし》りて京《けい》に至り、礼を卒《お》えて還れり。太祖の崩ぜると、其|后《きさき》の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此《これ》も亦人を強いて人情に遠きを為《な》さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈《あに》弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端《じたん》は先《ま》ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将《まさ》に淮安《わいあん》に至らんとせるに当りて、斉泰《せいたい》は帝に言《もう》し、人をして※[#「來+力」、第4水準2−3−41]《ちょく》を賚《もた》らして国に還《かえ》らしめぬ。燕王を首《はじめ》として諸王は皆|悦《よろこ》ばず。これ尚書《しょうしょ》斉泰《せいたい》の疎間《そかん》するなりと謂《い》いぬ。建文帝は位に即《つ》きて劈頭《へきとう》第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父《しゅくふ》なり、尊族なり、封土《ほうど》を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯《しか》、皇室の藩屏《はんぺい》たるも何かあらん。嗚呼《ああ》、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑《そも》又遺詔にあるか、諸王にあるか、之《これ》を知らざる也。又|飜《ひるがえ》って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止《とど》むるの語ありしや否や。或《あるい》は疑う、太祖の人情に通じ、世故《せいこ》に熟せる、まさに是《かく》の如きの詔を遺《のこ》さゞるべし。若《も》し太祖に果して登遐《とうか》の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就《つ》くの時に於《おい》て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦《また》発駕奔喪《はつがほんそう》の際に於て、半途にして擁遏《ようかつ》せらるゝの不快事に会う無く、各※[#二の字点、1−2−22]《おのおの》其《その》封に於て哭臨《こくりん》して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事|此《ここ》に出《い》でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可《べ》からず。人の情屈すれば則《すなわ》ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨《うらみ》を懐《いだ》き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之《これ》を知るの明《めい》無からん。故に曰《いわ》く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止《とど》むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰|黄子澄《こうしちょう》の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯《た》むるの事も、世其例に乏しからず、是《かく》の如きの事、未だ必ずしも無きを保《ほ》せず。然れども是《こ》れ推測の言のみ。真《しん》耶《か》、偽《ぎ》耶《か》、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為《い》か、為にあらざる耶《か》、将又《はたまた》斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏《とど》めざる能《あた》わざるの勢の存せしか、非|耶《か》。建文永楽の間《かん》、史に曲筆多し、今|新《あらた》に史徴を得るあるにあらざれば、疑《うたがい》を存せんのみ、確《たしか》に知る能《あた》わざる也。
太祖の崩ぜるは閏《うるう》五月なり、諸王の入京《にゅうけい》を遏《とど》められて悦《よろこ》ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎《こぶじろう》卓敬《たくけい》というもの、密疏《みっそ》を上《たてまつ》る。卓敬|字《あざな》は惟恭《いきょう》、書を読んで十行|倶《とも》に下ると云《い》われし頴悟聡敏《えいごそうびん》の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究《きわ》めざること無く、後に成祖《せいそ》をして、国家|士《し》を養うこと三十年、唯《ただ》一卓敬を得たりと歎《たん》ぜしめしほどの英才なり。※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]直慷慨《こうちょくこうがい》にして、避くるところ無し。嘗《かつ》て制度|未《いま》だ備わらずして諸王の服乗《ふくじょう》も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶《ちゃくしょ》相《あい》乱《みだ》り、尊卑序無くんば、何を以《もっ》て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾《なんじ》の言《げん》是《ぜ》なり、と曰《い》わしめたり。其《そ》の人となり知る可《べ》きなり。敬の密疏は、宗藩《そうはん》を裁抑《さいよく》して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事|竟《つい》に寝《や》みぬ。敬の言、蓋《けだ》し故無くして発せず、必らず窃《ひそか》に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升《しょうきょしょう》が言は、是《ここ》に於《おい》て其《その》中《あた》れるを示さんとし、七国の難は今|将《まさ》に発せんとす。燕《えん》王、周《しゅう》王、斉《せい》王、湘《しょう》王、代《だい》王、岷《みん》王等、秘信相通じ、密使|互《たがい》に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝《ちょう》に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其《そ》の未《いま》だ位に即《つ》かざりしより諸王を忌憚《きたん》し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君《ちょくん》を侮り、叔父《しゅくふ》の尊を挟《さしば》んで不遜《ふそん》の事多かりしなり。入京会葬を止《とど》むるの事、遺詔に出《い》づと云うと雖《いえど》も、諸王、責《せめ》を讒臣《ざんしん》に托《たく》して、而《しこう》して其の奸悪《かんあく》を除《のぞ》かんと云い、香《こう》を孝陵《こうりょう》に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋《けだ》し辞柄《じへい》無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼《ああ》、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]離《かいり》せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔《そかく》せざらん。疎隔し、※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]離す、而して帝の為《ため》に密《ひそか》に図るものあり、諸王の為に私《ひそか》に謀るものあり、況《いわ》んや藩王を以《もっ》て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於《おい》てをや。事|遂《つい》に決裂せずんば止《や》まざるものある也。
帝の為《ため》に密《ひそか》に図る者をば誰《たれ》となす。曰《いわ》く、黄子澄《こうしちょう》となし、斉泰《せいたい》となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]水《りっすい》の人、洪武十七年より漸《ようや》く世に出《い》づ。建文帝|位《くらい》に即きたもうに及び、子澄と与《とも》に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏《とど》めたる時の如き、諸王は皆|謂《おも》えらく、泰皇考《たいこうこう》の詔を矯《た》めて骨肉を間《へだ》つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
諸王の為に私《ひそか》に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄《ゆう》を燕王となす。燕王の傅《ふ》に、僧|道衍《どうえん》あり。道衍は僧たりと雖《いえど》[#ルビの「いえど」は底本では「いえども」]も、灰心滅智《かいしんめっち》の羅漢《らかん》にあらずして、却《かえ》って是《こ》れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就《つ》く時、道衍|躬《み》ずから薦《すす》めて燕王の傅《ふ》とならんとし、謂《い》って曰く、大王《だいおう》臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽《いちはくぼう》を奉りて大王がために戴《いただ》かしめんと。王上《おうじょう》に白《はく》を冠すれば、其《その》文《ぶん》は皇なり、儲位《ちょい》明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是《かく》の如《ごと》きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而《しこう》して燕王|是《かく》の如きの怪僧を延《ひ》いて帷※[#「巾+莫」、UCS−5E59、274−11]《いばく》の中に居《お》く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲《そうこう》も毒ありというべし。道衍|燕邸《えんてい》に至るに及んで袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《えんこう》を王に薦む。袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]は字《あざな》は廷玉《ていぎょく》、※[#「覲」の「見」に代えて「おおざと」、第4水準2−90−26]《きん》の人にして、此《これ》亦《また》一種の異人なり。嘗《かつ》て海外に遊んで、人を相《そう》するの術を別古崖《べつこがい》というものに受く。仰いで皎日《こうじつ》を視《み》て、目|尽《ことごと》く眩《げん》して後、赤豆《せきとう》黒豆《こくとう》を暗室中に布《し》いて之を弁《べん》じ、又五色の縷《いと》を窓外に懸け、月に映じて其《その》色を別って訛《あやま》つこと無く、然《しか》して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬《りょうきょ》を燃《もや》し、人の形状|気色《きしょく》を視《み》て、参するに生年|月日《げつじつ》を以てするに、百に一|謬《びょう》無く、元末より既に名を天下に馳《は》せたり。其の道衍《どうえん》と識《し》るに及びたるは、道衍が嵩山寺《すうざんじ》に在りし時にあり。袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《えんこう》道衍が相をつく/″\と観《み》て、是《こ》れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎《びょうこ》の如し。性|必《かな》らず殺を嗜《たしな》まん。劉秉忠《りゅうへいちゅう》の流《りゅう》なりと。劉秉忠は学《がく》内外を兼ね、識《しき》三才を綜《す》ぶ、釈氏《しゃくし》より起《おこ》って元主を助け、九州を混一《こんいつ》し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼《よ》ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮※[#「てへん+霍」、UCS−6509、275−10]《きかく》の宜《よろ》しきを得るに因《よ》るもの亦《また》鮮《すくな》からず。秉忠は実に奇偉卓犖《きいたくらく》の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処《ようしょ》に爬着《はちゃく》するもの。是れより二人、友とし善《よ》し。道衍の※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《こう》を燕王に薦むるに当りてや、燕王|先《ま》ず使者をして※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《こう》と与《とも》に酒
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