いぬ。太孫|猶《なお》齢《とし》若く、子澄未だ世に老いず、片時《へんじ》の談、七国の論、何ぞ図《はか》らん他日山崩れ海|湧《わ》くの大事を生ぜんとは。
 太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同《どう》閏《うるう》五月|西宮《せいきゅう》に崩ず。其《その》遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度《いくたび》と無く畏《おそ》るべき危険の境を冒して、無産無官又|無家《むか》、何等《なんら》の恃《たの》むべきをも有《も》たぬ孤独の身を振い、終《つい》に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮《おも》[#ルビの「おも」は底本では「おもい」]い竭《つく》して民を済《すく》い、而《しこう》して礼を尚《たっと》び学を重んじ、百|忙《ぼう》の中《うち》、手に書を輟《や》めず、孔子の教《おしえ》を篤信し、子《し》は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此《これ》に依拠し、又|蚤歳《そうさい》にして仏理に通じ、内典を知るも、梁《りょう》の武帝の如く淫溺《いんでき》せず、又|老子《ろうし》を愛し、恬静《てんせい》を喜び、自《みず》から道徳経註《どうとくけいちゅう》二巻を撰《せん》し、解縉《かいしん》をして、上疏《じょうそ》の中に、学の純ならざるを譏《そし》らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚《こうしょう》せず、嘗《かつ》て宗濂《そうれん》に謂《い》って、人君|能《よ》く心を清くし欲を寡《すくな》くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々※[#「白+皐」、第4水準2−81−80]々《ききこうこう》として自《みずか》ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰《い》い、詩文を善《よ》くして、文集五十巻、詩集五巻を著《あらわ》せるも、※[#「澹のつくり」、第3水準1−92−8]同《せんどう》と文章を論じては、文はたゞ誠意|溢出《いっしゅつ》するを尚《たっと》ぶと為し、又洪武六年九月には、詔《みことのり》して公文に対偶文辞《たいぐうぶんじ》を用いるを禁じ、無益の彫刻|藻絵《そうかい》を事とするを遏《とど》めたるが如き、まことに通ずること博《ひろ》くして拘《とら》えらるゝこと少《すくな》く、文武を兼《か》ねて有し、智有を併《あわ》せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高《かいてんこうどうちょうきりつきょくたいせいししんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこう》皇帝の諡号《しごう》に負《そむ》かざる朱元璋《しゅげんしょう》、字《あざな》は国瑞《こくずい》の世《よ》を辞《じ》して、其《その》身は地に入り、其|神《しん》は空《くう》に帰せんとするに臨みて、言うところ如何《いかん》。一鳥の微《び》なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可《べ》く考う可《べ》きもの無からんや。遺詔に曰く、朕《ちん》皇天の命を受けて、大任に世に膺《あた》ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何《いかん》せん寒微《かんび》より起りて、古人の博智無く、善を好《よみ》し悪を悪《にく》むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕|危懼《きく》す、慮《はか》るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得《う》、其《そ》れ奚《いずく》んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜《よろ》しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐《ほゆう》し、以《もっ》て吾《わ》が民を福《さいわい》せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異《こと》にする勿《なか》れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川《さんせん》は、其の故《ふるき》に因りて改むる勿《なか》れ、天下の臣民は、哭臨《こくりん》する三日にして、皆服を釈《と》き、嫁娶《かしゅ》を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨《なげ》きて、京師に至る母《なか》れ。諸《もろもろ》の令の中《うち》に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
 嗚呼《ああ》、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺《あた》ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是《こ》れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕《あいあいじんじょ》の情景、百歳の下《しも》、人をして欽仰《きんごう》せしむるに足るものあり。奈何《いかん》せん寒微より起りて、智浅く徳|寡《すくな》し、といえるは、謙遜《けんそん》の態度を取り、反求《はんきゅう》の工夫に切に、諱《い》まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死|旦夕《たんせき》に在り、といえるは、英雄も亦《また》大限《たいげん》の漸《ようや》く逼《せま》るを如何《いかん》ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚《いずく》にぞ哀念かこれ有らん、と云《い》える、流石《さすが》に孔孟仏老《こうもうぶつろう》の教《おしえ》に於《おい》て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑|少《すくな》きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真《しん》豪傑、生きて長春不老の癡想《ちそう》を懐《いだ》かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容《しょうよう》として逼《せま》らず、晏如《あんじょ》として※[#「りっしんべん+易」、第3水準1−84−53]《おそ》れず、偉なる哉《かな》、偉なる哉。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一|言《げん》や鉄の鋳られたるが如《ごと》し。衆論の糸の紛《もつ》るゝを防ぐ。これより前《さき》、太孫の儲位《ちょい》に即《つ》くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖《いえど》も、太孫の人となり仁孝|聡頴《そうえい》にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚《はなは》だ欠く。此《これ》を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其《その》詩|婉美柔弱《えんびじゅうじゃく》、豪壮|瑰偉《かいい》の処《ところ》無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句《しく》の属対《ぞくたい》をなさしめしに、大《おおい》に旨《し》に称《かな》わず、復《ふたた》び以て燕王《えんおう》棣《てい》に命ぜられけるに、燕王の語は乃《すなわ》ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌《ようぼう》偉《い》にして髭髯《しぜん》美《うる》わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖[#「太祖」は底本では「大祖」]に肖《に》たること多かりしかば、太祖も此《これ》を悦《よろこ》び、人も或《あるい》は意《こころ》を寄するものありたり。此《ここ》に於《おい》て太祖|密《ひそか》に儲位《ちょい》を易《か》えんとするに意《い》有りしが、劉三吾《りゅうさんご》之《これ》を阻《はば》みたり。三吾は名は如孫《じょそん》、元《げん》の遺臣なりしが、博学にして、文を善《よ》くしたりければ、洪武十八年召されて出《い》でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時|汪叡《おうえい》、朱善《しゅぜん》と与《とも》に、世《よ》称して三|老《ろう》と為《な》す。人となり慷慨《こうがい》にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁《たんたんおう》といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平《せいへい》実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与《あずか》りて定むる所多く、帝の洪範《こうはん》の注成るや、命を承《う》けて序を為《つく》り、勅修《ちょくしゅう》の書、省躬録《せいきゅうろく》、書伝会要《しょでんかいよう》、礼制集要《れいせいしゅうよう》等の編撰《へんせん》総裁となり、居然《きょぜん》たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節《たいせつ》に臨むに至りては、屹《きつ》として奪う可《べ》からず。懿文《いぶん》太子の薨《こう》ずるや、身を挺《ぬき》んでゝ、皇孫は世嫡《せいちゃく》なり、大統を承《う》けたまわんこと、礼|也《なり》、と云いて、内外の疑懼《ぎく》を定め、太孫を立てゝ儲君《ちょくん》となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言《げん》無からん、乃《すなわ》ち曰《いわ》く、若《も》し燕王を立て給《たま》わば秦王《しんおう》晋王《しんおう》を何の地に置き給わんと。秦王|※[#「木+爽」、UCS−6A09、265−7]《そう》、晋王|棡《こう》は、皆燕王の兄たり。孫《そん》を廃して子《し》を立つるだに、定まりたるを覆《かえ》すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世《よ》豈《あに》事無くして已《や》まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其《その》事|止《や》みけるなり。是《かく》の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏《とど》めて、特《こと》に厳しく皇太孫允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]|宜《よろ》しく大位に登るべしとは詔を遺《のこ》されたるなるべし。太祖の治《ち》を思うの慮《りょ》も遠く、皇孫を愛するの情も篤《あつ》しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如《ごと》くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨《こくりん》三日にして服を釈《と》き、嫁娶《かしゅ》を妨ぐる勿《なか》れ、と云える、何ぞ倹素《けんそ》にして仁恕《じんじょ》なる。文帝の如くせよとは、金玉《きんぎょく》を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故《もと》に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福《さいわい》あらしめんとなり。諸王は国中に臨《なげ》きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋《けだ》し其《その》意《い》諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]《いげつ》、辺土の黠豪《かつごう》等、或《あるい》は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原《りょうげん》の勢を成すに至らんことを虞《おそ》るるに似たり。此《こ》も亦《また》愛民憂世の念、おのずから此《ここ》に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼《ああ》、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。


 然《しか》りと雖《いえど》も、太祖の遺詔、考う可《べ》きも亦《また》多し。皇太孫|允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、天下心を帰す、宜《よろ》しく大位に登るべし、と云《い》えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当《まさ》に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或《あるい》は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年|少《わか》く勇《ゆう》乏しき、自ら謙譲して諸王の中《うち》の材雄に略大なる者に位を遜《ゆず》らんことを欲する者ありしが如《ごと》きをも猜《すい》せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明《みん》の世を治むる、纔《わずか》に三十一年、元《げん》の裔《えい》猶《なお》未《いま》だ滅びず、中国に在るもの無しと雖《いえど》も、漠北《ばくほく》に、塞西《さいせい》に、辺南《へんなん》に、元の同種の広大の地域を有して※[#「足へん+番」、第4水準2−89−49]踞《ばんきょ》するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和《こうわ》に寇《あだ》するあり。国外の情《じょう》是《かく》の如し。而《しこう》して域内の事、また英主の世を御せんことを幸《さいわい》とせずんばあらず。仁明孝友は固《もと》より尚《たっと》ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或《あるい》は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐《ほゆう》し、以《もっ》て吾《わ》が民を福《さいわい》せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼《おそ》るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶《か》、非《ひ》耶《か》。諸王は国中に臨《なげ》
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