》王とし、十六歳にして藩に※[#「亠/兌」、第3水準1−14−50]州府《えんしゅうふ》に就かしめ、第十一子|椿《ちん》を封じて蜀《しょく》王とし、成都《せいと》に居《お》き、第十二子|柏《はく》を湘《しょう》王とし、荊州府《けいしゅうふ》に居き、第十三子|桂《けい》を代《だい》王とし、大同府《だいどうふ》に居き、第十四子|※[#「木+英」、UCS−6967、252−11]《えい》を粛《しゅく》王とし、藩に甘州府《かんしゅうふ》に就かしめ、第十五子|植《しょく》を封じて遼《りょう》王とし、広寧府《こうねいふ》に居き、第十六子|※[#「木+「旃」の「丹」に代えて「冉」、252−12]《せん》を慶《けい》王として寧夏《ねいか》に居き、第十七子|権《けん》を寧《ねい》王に封じ、大寧《たいねい》に居らしめ、第十八子|※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《べん》を封じて岷《びん》王となし、第十九子|※[#「木+惠」、UCS−6A5E、253−2]《けい》を封じて谷《こく》王となす、谷王というは其《そ》の居《お》るところ宣府《せんふ》の上谷《じょうこく》の地たるを以てなり、第二十子|松《しょう》を封じて韓《かん》王となし、開源《かいげん》に居らしむ。第二十一子|模《ぼ》を瀋《しん》王とし、第二十二子|楹《えい》を安《あん》王とし、第二十三子|※[#「木+經のつくり」、UCS−6871、253−4]《けい》を唐《とう》王とし、第二十四子|棟《とう》を郢《えい》王とし、第二十五子|※[#「木+(ヨ/粉/廾)」、253−5]《い》を伊《い》王としたり。藩《しん》王以下は、永楽《えいらく》に及んで藩に就きたるなれば、姑《しば》らく措《お》きて論ぜざるも、太祖の諸子を封《ほう》じて王となせるも亦《また》多しというべく、而《しこう》して枝柯《しか》甚《はなは》だ盛んにして本幹《ほんかん》却《かえ》って弱きの勢《いきおい》を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝《きんさつきんほう》を授けられ、歳禄《さいろく》は万石《まんせき》、府には官属を置き、護衛の甲士《こうし》、少《すくな》き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服《べんぷく》車旗《しゃき》邸第《ていだい》は、天子に下《くだ》ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦《また》至れりというべし。且つ元《げん》の裔《えい》の猶《なお》存して、時に塞下《さいか》に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中《こくちゅう》に専制し、三護衛の重兵《ちょうへい》を擁するを得せしめ、将を遣《や》りて諸路の兵を徴《め》すにも、必ず親王に関白して乃《すなわ》ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦《また》大なりというべし。太祖の意に謂《おも》えらく、是《かく》の如《ごと》くなれば、本支《ほんし》相《あい》幇《たす》けて、朱氏《しゅし》永く昌《さか》え、威権|下《しも》に移る無く、傾覆の患《うれい》も生ずるに地無からんと。太祖の深智《しんち》達識《たっしき》は、まことに能《よ》く前代の覆轍《ふくてつ》に鑑《かんが》みて、後世に長計を貽《のこ》さんとせり。されども人智は限《かぎり》有り、天意は測り難し、豈《あに》図《はか》らんや、太祖が熟慮遠謀して施為《しい》せるところの者は、即《すなわ》ち是れ孝陵《こうりょう》の土|未《いま》だ乾かずして、北平《ほくへい》の塵《ちり》既に起り、矢石《しせき》京城《けいじょう》に雨注《うちゅう》して、皇帝|遐陬《かすう》に雲遊するの因とならんとは。
太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙《つと》に之《これ》を論じて、然《しか》る可《べ》からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其《その》歳《とし》閏《うるう》九月、たま/\天文《てんもん》の変ありて、詔《みことのり》を下し直言《ちょくげん》を求められにければ、山西《さんせい》の葉居升《しょうきょしょう》というもの、上書して第一には分封の太《はなは》だ侈《おご》れること、第二には刑を用いる太《はなは》だ繁《しげ》きこと、第三には治《ち》を求むる太《はなは》だ速やかなることの三条を言えり。其の分封|太侈《たいし》を論ずるに曰《いわ》く、都城|百雉《ひゃくち》を過ぐるは国の害なりとは、伝《でん》の文にも見えたるを、国家今や秦《しん》晋《しん》燕《えん》斉《せい》梁《りょう》楚《そ》呉《ご》※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]《びん》の諸国、各|其《その》地《ち》を尽して之《これ》を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜《つ》ぎ、之に賜《たま》うに甲兵衛士の盛《さかん》なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世《すうせい》の後は尾大《びだい》掉《ふる》わず、然《しか》して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則《すなわ》ち其の怨《うらみ》を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則《すなわ》ち険《けん》を恃《たの》みて衡《こう》を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚《はなはだ》しければ則ち間《かん》に縁《よ》りて而して起《た》たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景《こうけい》皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗《どうそう》父兄弟《ふけいてい》子孫《しそん》なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫《しんしそん》なり。然るに世を易《か》うるの後は迭《たがい》に兵を擁して、以て皇帝を危《あやう》くせり。昔は賈誼《かぎ》漢の文帝に勧めて、禍を未萌《みぼう》に防ぐの道を白《もう》せり。願わくば今|先《ま》ず諸王の都邑《とゆう》の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里《きょうり》を限りたまえと。居升《きょしょう》の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正《まさ》に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中《ごくちゅう》に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験《しるし》ありて、漢の七国の喩《たとえ》、眼《ま》のあたりの事となれるぞ是非無き。
七国の事、七国の事、嗚呼《ああ》是れ何ぞ明室《みんしつ》と因縁の深きや。葉居升《しょうきょしょう》の上書の出《い》ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂《たいほんどう》というを建てたまい、古今《ここん》の図書を充《み》て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注《ききょちゅう》の魏観《ぎかん》字《あざな》は※[#「木+巳」、256−9]山《きざん》というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書《かんじょ》の七図漢に叛《そむ》ける事を講じ聞《きか》せたりと答え白《もう》す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰《いずれ》に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対《こた》う。時に太祖|肯《がえん》ぜずして、否《あらず》、其《そ》は講官の偏説なり。景帝《けいてい》太子たりし時、博局《はくきょく》を投じて呉王《ごおう》の世子《せいし》を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯《ちょうさく》の説を聴きて、諸侯の封《ほう》を削りたり、七国の変は実に此《これ》に由る。諸子の為《ため》に此《この》事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓《ひゃくせい》を撫《ぶ》し、国家の藩輔《はんぽ》となりて、天下の公法を撓《みだ》す無かれと言うべきなり、此《かく》の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦《とんぼく》し、親しきを親しむの恩を隆《さか》んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼《きょうよく》し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此《こ》の太祖の言は、正《まさ》に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙《はや》くより此《この》意ありたればこそ、其《それ》より二年ほどにして、洪武三年に、※[#「木+爽」、UCS−6A09、257−9]《そう》、棡《こう》、棣《てい》、※[#「木+肅」、UCS−6A5A、257−9]《しゅく》、※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《てい》、榑《ふ》、梓《しん》、檀《たん》、※[#「木+巳」、257−10]《き》の九子を封じて、秦《しん》晋《しん》燕《えん》周《しゅう》等に王とし、其《その》甚《はなはだ》しきは、生れて甫《はじ》めて二歳、或《あるい》は生れて僅《わずか》に二ヶ月のものをすら藩王とし、次《つ》いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而《しこう》して又|夙《はや》くより此意ありたればこそ、葉居升《しょうきょしょう》が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文《いぶん》太子に、七国反漢の事を喩《さと》したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯《か》ばかり思いしことの、其《その》身《み》死すると共に直《ただち》に禍端乱階《かたんらんかい》となりて、懿文《いぶん》の子の允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、七国反漢の古《いにしえ》を今にして窘《くるし》まんとは。不世出の英雄|朱元璋《しゅげんしょう》も、命《めい》といい数《すう》というものゝ前には、たゞ是《これ》一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承《う》けて其《その》御子《おんこ》允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]皇太孫の位に即《つ》かせたもう。継紹《けいしょう》の運まさに是《かく》の如くなるべきが上に、下《しも》は四海の心を繋《か》くるところなり。上《かみ》は一|人《にん》の命《めい》を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲《こうちょ》となりたまえる上は、齢《よわい》猶《なお》弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王|或《あるい》は功あり或は徳ありと雖《いえど》も、遠からず俯首《ふしゅ》して命《めい》を奉ずべきなれば、理に於《おい》ては当《まさ》に之《これ》を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟《はさ》み、大封の勢《いきおい》に藉《よ》り、且《かつ》は叔父《しゅくふ》の尊きを以《もっ》て、不遜《ふそん》の事の多かりければ、皇太孫は如何《いか》ばかり心苦しく厭《いと》わしく思いしみたりけむ。一日《いちじつ》東角門《とうかくもん》に坐して、侍読《じどく》の太常卿《たいじょうけい》黄子澄《こうしちょう》というものに、諸王|驕慢《きょうまん》の状を告げ、諸《しょ》叔父《しゅくふ》各大封|重兵《ちょうへい》を擁し、叔父の尊きを負《たの》みて傲然《ごうぜん》として予に臨む、行末《ゆくすえ》の事も如何《いかが》あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰《のたま》いたもう。子澄名は※[#「さんずい+是」、第3水準1−86−90]《てい》、分宜《ぶんぎ》の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖《いえど》も、世故《せいこ》に練達することは未《いま》だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其《その》昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔《わずか》に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国|叛《そむ》きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰《たれ》か能《よ》く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心《みこころ》安く思召《おぼしめ》せ、と七国の古《いにしえ》を引きて対《こた》うれば、太孫は子澄が答を、げに道理《もっとも》なりと信じたま
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