いか》を体《たい》に被《こうむ》らせ、鉄鈕《てっちゅう》もて足を繋《つな》ぎ置きけるに、俄《にわか》にして皆おのずから解脱《げだつ》し、竟《つい》に遯《のが》れ去って終るところを知らず。三司郡県将校《さんしぐんけんしょうこう》等《ら》、皆|寇《あだ》を失うを以て誅《ちゅう》せられぬ。賽児は如何《いかが》しけん其後|踪跡《そうせき》杳《よう》として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京《ほくけい》山東《さんとう》の尼姑《にこ》は尽《ことごと》く逮捕して京に上せ、厳重に勘問《かんもん》し、終《つい》に天下の尼姑という尼姑を逮《とら》うるに至りしが、得る能《あた》わずして止《や》み、遂に後の史家をして、妖耶《ようか》人耶《ひとか》、吾《われ》之《これ》を知らず、と云《い》わしむるに至れり。
世の伝うるところの賽児の事既に甚《はなは》だ奇、修飾を仮《か》らずして、一部|稗史《はいし》たり。女仙外史の作者の藉《か》りて以《もっ》て筆墨を鼓《こ》するも亦《また》宜《むべ》なり。然《しか》れども賽児の徒、初《はじめ》より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐《かぎゃく》するところとなって而《しこう》して後爆裂|迸発《へいはつ》して※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索《もと》むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒|窘窮《きんきゅう》して戈《ほこ》を執《と》って立つに及び、或《あるい》は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其《その》実《じつ》を知るを得ん。永楽|簒奪《さんだつ》して功を成す、而《しか》も聡明《そうめい》剛毅《ごうき》、政《まつりごと》を為《な》す甚だ精、補佐《ほさ》また賢良多し。こゝを以て賽児の徒|忽《たちまち》にして跡を潜むと雖《いえど》も、若《も》し秦末《しんまつ》漢季《かんき》の如《ごと》きの世に出《い》でしめば、陳渉《ちんしょう》張角《ちょうかく》、終《つい》に天下を動かすの事を為《な》すに至りたるやも知る可《べ》からず。嗚呼《ああ》賽児も亦|奇女子《きじょし》なるかな。而して此《この》奇女子を藉《か》りて建文に与《くみ》し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其《そ》の奇を求めずして而しておのずから然《しか》るあらんのみ。然りと雖も予《よ》猶《なお》謂《おも》えらく、逸田叟《いつでんそう》の脚色は仮《か》にして後|纔《わずか》に奇なり、造物|爺々《やや》の施為《しい》は真にして且《かつ》更に奇なり。
明《みん》の建文《けんぶん》皇帝は実に太祖《たいそ》高《こう》皇帝に継《つ》いで位に即《つ》きたまえり。時に洪武《こうぶ》三十一年|閏《うるう》五月なり。すなわち詔《みことのり》して明年を建文元年としたまいぬ。御代《みよ》しろしめすことは正《まさ》しく五歳にわたりたもう。然《しか》るに廟諡《びょうし》を得たもうこと無く、正徳《しょうとく》、万暦《ばんれき》、崇禎《すうてい》の間、事しば/\議せられて、而《しか》も遂《つい》に行われず、明《みん》亡び、清《しん》起りて、乾隆《けんりゅう》元年に至って、はじめて恭憫恵《きょうびんけい》皇帝という諡《おくりな》を得たまえり。其《その》国の徳衰え沢《たく》竭《つ》きて、内憂外患こも/″\逼《せま》り、滅亡に垂《なりなん》とする世には、崩じて諡《おく》られざる帝《みかど》のおわす例《ためし》もあれど、明の祚《そ》は其《そ》の後|猶《なお》二百五十年も続きて、此《この》時太祖の盛徳偉業、炎々《えんえん》の威を揚げ、赫々《かくかく》の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後《のち》なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其《そ》[#ルビの「そ」は底本では「その」]の是《かく》の如《ごと》くなるに至りし所以《ゆえん》は、天意か人為かはいざ知らず、一|波《ぱ》動いて万波動き、不可思議の事の重畳《ちょうじょう》連続して、其の狂濤《きょうとう》は四年の間の天地を震撼《しんかん》し、其の余瀾《よらん》は万里の外の邦国に漸浸《ぜんしん》するに及べるありしが為《ため》ならずばあらず。
建文皇帝|諱《いみな》は允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父《おんちち》懿文《いぶん》太子、太祖に紹《つ》ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢《おんとし》六十五にわたらせ給《たま》いければ、流石《さすが》に淮西《わいせい》の一布衣《いっぷい》より起《おこ》って、腰間《ようかん》の剣《けん》、馬上の鞭《むち》、四百余州を十五年に斬《き》り靡《なび》けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭《しょく》を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎《しお》れたもう。翰林学士《かんりんがくし》の劉三吾《りゅうさんご》、御歎《おんなげき》はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君《ちょくん》と仰せ出されんには、四海心を繋《か》け奉らんに、然《さ》のみは御過憂あるべからず、と白《もう》したりければ、実《げ》にもと点頭《うなず》かせられて、其《その》歳《とし》の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即《すなわ》ち後に建文の帝《みかど》と申す。谷氏《こくし》の史に、建文帝、生れて十年にして懿文《いぶん》卒《しゅっ》すとあるは、蓋《けだ》し脱字《だつじ》にして、父君に別れ、儲位《ちょい》に立ちたまえる時は、正《まさ》しく十六歳におわしける。資性|穎慧《えいけい》温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘《わた》りて昼夜|膝下《しっか》を離れたまわず、薨《かく》れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠《や》せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾《なんじ》まことに純孝なり、たゞ子を亡《うしな》いて孫を頼む老いたる我をも念《おも》わぬことあらじ、と宣《のたま》いて、過哀に身を毀《やぶ》らぬよう愛撫《あいぶ》せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏《しょうそう》を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於《おい》て宥《なだ》め軽めらるゝこと多かりき。太子|亡《う》せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍《あまね》く礼経《れいけい》を考え、歴代の刑法を参酌《さんしゃく》し、刑律は教《おしえ》を弼《たす》くる所以《ゆえん》なれば、凡《およ》そ五倫《ごりん》と相《あい》渉《わた》る者は、宜《よろ》しく皆法を屈して以《もっ》て情《じょう》を伸ぶべしとの意により、太祖の准許《じゅんきょ》を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下|大《おおい》に喜びて徳を頌《しょう》せざる無し。太祖の言《ことば》に、吾《われ》は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝《なんじ》は平世を治むるなれば、刑おのずから当《まさ》に軽《かろ》うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌《ぶしょう》を平らげたる呉《ご》の元年に、李善長《りぜんちょう》等《ら》の考え設けたるを初《はじめ》とし、洪武六年より七年に亙《わた》りて劉惟謙《りゅういけん》等《ら》の議定するに及びて、所謂《いわゆる》大明律《たいみんりつ》成り、同じ九年|胡惟庸《こいよう》等《ら》命を受けて釐正《りせい》するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰《へんせん》を経て、終《つい》に洪武の末に至り、更定大明律《こうていたいみんりつ》三十巻大成し、天下に頒《わか》ち示されたるなり。呉の元年より茲《ここ》に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精《くわ》しくして、一代の法始めて定まり、朱氏《しゅし》の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視《くら》ぶれば簡覈《かんかく》、而《しか》して寛厚は宗《そう》に如《し》かざるも、其の惻隠《そくいん》の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦《わがくに》に及び、徳川期の識者をして此《これ》を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此《これ》に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦《また》人君の度ありて、明律|因《よ》りて以《もっ》て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即《つ》きたもうや、刑官に諭《さと》したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕《ちん》に命じて細閲せしめたまえり。前代に較《くら》ぶるに往々重きを加う。蓋《けだ》し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前《さき》に改定せるところは、皇祖|已《すで》に命じて施行せしめたまえり。然《しか》れども罪の矜疑《きょうぎ》すべき者は、尚《なお》此《これ》に止《とど》まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順《したが》う。民を斉《ととの》うるに刑を以てするは礼を以てするに若《し》かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇《たっと》び、疑獄を赦《ゆる》し、朕が万方《ばんぽう》と与《とも》にするを嘉《よろこ》ぶの意に称《かな》わしめよと。嗚呼《ああ》、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰《たれ》がこれを然らずとせんや。
是《かく》の如きの人にして、帝《みかど》となりて位を保つを得ず、天に帰して諡《おくりな》を得《う》る能《あた》わず、廟《びょう》無く陵無く、西山《せいざん》の一抔土《いっぽうど》、封《ほう》せず樹《じゅ》せずして終るに至る。嗚呼《ああ》又奇なるかな。しかも其の因縁《いんえん》の糾纏錯雑《きゅうてんさくざつ》して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或《あるい》は刻毒《こくどく》なる、或は杳渺《ようびょう》たる、奇も亦《また》太甚《はなはだ》しというべし。
建文帝の国を遜《ゆず》らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋《そう》元《げん》傾覆の所以《ゆえん》を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆《おお》く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以《もっ》て帝室に藩屏《はんべい》たらしめ、京師《けいし》を拱衛《きょうえい》せしめんと欲せり。是《こ》れ亦《また》故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥《しょうすい》外に傲《おご》り、奸邪《かんじゃ》間《あいだ》に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能《あた》わず、宗廟《そうびょう》祀《まつ》られざるに至るべし。若《も》し夫《そ》れ衆《おお》く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣|勢《いきおい》を得るの隙《すき》無し。こゝに於《おい》て、第二子|※[#「木+爽」、UCS−6A09、252−3]《そう》を秦《しん》王に封《ほう》じ、藩に西安《せいあん》に就《つ》かしめ、第三子|棡《こう》を晋《しん》王に封じ、太原府《たいげんふ》に居《お》らしめ、第四子|棣《てい》を封じて燕《えん》王となし、北平府《ほくへいふ》即《すなわ》ち今の北京《ぺきん》に居らしめ、第五子|※[#「木+肅」、UCS−6A5A、252−5]《しゅく》を封じて周《しゅう》王となし、開封府《かいほうふ》に居らしめ、第六子|※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《てい》を楚《そ》王とし、武昌《ぶしょう》に居らしめ、第七子|榑《ふ》を斉《せい》王とし、青州府《せいしゅうふ》に居らしめ、第八子|梓《し》を封じて潭《たん》王とし、長沙《ちょうさ》に居《お》き、第九子|※[#「木+巳」、252−7]《き》を趙《ちょう》王とせしが、此《こ》は三歳にして殤《しょう》し、藩に就くに及ばず、第十子|檀《たん》を生れて二月にして魯《ろ
前へ
次へ
全24ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング