運命
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)数《すう》というもの

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今年|祖龍《そりゅう》死せんと

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《いえん》

 [#…]:返り点
 (例)奉[#レ]答[#二]高季迪[#一]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 世おのずから数《すう》というもの有りや。有りといえば有るが如《ごと》く、無しと為《な》せば無きにも似たり。洪水《こうずい》天に滔《はびこ》るも、禹《う》の功これを治め、大旱《たいかん》地を焦《こが》せども、湯《とう》の徳これを済《すく》えば、数有るが如くにして、而《しか》も数無きが如し。秦《しん》の始皇帝、天下を一にして尊号《そんごう》を称す。威※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《いえん》まことに当る可《べ》からず。然《しか》れども水神ありて華陰《かいん》の夜に現われ、璧《たま》を使者に托して、今年|祖龍《そりゅう》死せんと曰《い》えば、果《はた》して始皇やがて沙丘《しゃきゅう》に崩ぜり。唐《とう》の玄宗《げんそう》、開元は三十年の太平を享《う》け、天宝《てんぽう》は十四年の華奢《かしゃ》をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨《いちぎょうあじゃり》、陛下万里に行幸して、聖祚《せいそ》疆《かぎり》無《な》からんと奏したりしかば、心得がたきことを白《もう》すよとおぼされしが、安禄山《あんろくざん》の乱起りて、天宝十五年|蜀《しょく》に入りたもうに及び、万里橋《ばんりきょう》にさしかゝりて瞿然《くぜん》として悟り玉《たま》えりとなり。此等《これら》を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録《ていめいろく》、続定命録《ぞくていめいろく》、前定録《ぜんていろく》、感定録《かんていろく》等、小説|野乗《やじょう》の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭《いんたくしょうこく》も、悉《ことごと》く天意に因《よ》るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令《たとえ》数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏《おそ》れて、巫覡卜相《ふげきぼくそう》の徒の前に首《こうべ》を俯《ふ》せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教《おしえ》の下《もと》に心を安くせんには如《し》かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命《めい》を称して歎《たん》じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋《ろう》とすべし。事敗れて之《これ》を吾《わ》が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委《ゆだ》ねなば、其《その》人《ひと》偽らずして真《しん》、其|器《き》小ならずして偉なりというべし。先哲|曰《いわ》く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者|或《あるい》は能《よ》く数を知らん。
 古《いにしえ》より今に至るまで、成敗《せいばい》の跡、禍福の運、人をして思《おもい》を潜《ひそ》めしめ歎《たん》を発せしむるに足《た》るもの固《もと》より多し。されども人の奇を好むや、猶《なお》以《もっ》て足れりとせず。是《ここ》に於《おい》て才子は才を馳《は》せ、妄人《もうじん》は妄《もう》を恣《ほしいいまま》にして、空中に楼閣を築き、夢裏《むり》に悲喜を画《えが》き、意設筆綴《いせつひってつ》して、烏有《うゆう》の談を為《つく》る。或は微《すこ》しく本《もと》づくところあり、或は全く拠《よ》るところ無し。小説といい、稗史《はいし》といい、戯曲といい、寓言《ぐうげん》というもの即《すなわ》ち是《これ》なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈《あに》図《はか》らんや造物の脚色は、綺語《きご》の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能《あた》わざるの巧緻《こうち》あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試《こころみ》に看《み》よ建文《けんぶん》永楽《えいらく》の事を。


 我が古《こ》小説家の雄《ゆう》を曲亭主人馬琴《きょくていしゅじんばきん》と為《な》す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝《はっけんでん》の雄大、弓張月《ゆみはりづき》の壮快、皆|江湖《こうこ》の嘖々《さくさく》として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優《まさ》るあるも劣らざるものを侠客伝《きょうかくでん》と為《な》す。憾《うら》むらくは其の叙するところ、蓋《けだ》し未《いま》だ十の三四を卒《おわ》るに及ばずして、筆硯《ひっけん》空しく曲亭の浄几《じょうき》に遺《のこ》りて、主人既に逝《ゆ》きて白玉楼《はくぎょくろう》の史《し》となり、鹿鳴草舎《はぎのや》の翁《おきな》これを続《つ》げるも、亦《また》功を遂げずして死せるを以《もっ》て、世|其《そ》の結構の偉《い》、輪奐《りんかん》の美を観《み》るに至らずして已《や》みたり。然《しか》れども其の意を立て材を排する所以《ゆえん》を考うるに、楠氏《なんし》の孤女《こじょ》を仮《か》りて、南朝の為《ため》に気を吐かんとする、おのずから是《こ》れ一大文章たらずんば已《や》まざるものあるをば推知するに足るあり。惜《おし》い哉《かな》其の成らざるや。
 侠客伝は女仙外史《じょせんがいし》より換骨脱胎《かんこつだったい》し来《きた》る。其の一部は好逑伝《こうきゅうでん》に藉《よ》るありと雖《いえど》も、全体の女仙外史を化《か》し来《きた》れるは掩《おお》う可《べ》からず。此《これ》の姑摩媛《こまひめ》は即《すなわ》ち是《こ》れ彼《かれ》の月君《げっくん》なり。月君が建文帝《けんぶんてい》の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本《らんぽん》たらずんばあらず。此《こ》は是《こ》れ馬琴が腔子裏《こうしり》の事なりと雖《いえど》も、仮《かり》に馬琴をして在らしむるも、吾《わ》が言を聴かば、含笑《がんしょう》して点頭《てんとう》せん。


 女仙外史一百回は、清《しん》の逸田叟《いつでんそう》、呂熊《りょゆう》、字《あざな》は文兆《ぶんちょう》の著《あらわ》すところ、康熙《こうき》四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒《おわ》る。其《そ》の書の体《たい》たるや、水滸伝《すいこでん》平妖伝《へいようでん》等に同じと雖《いえど》も、立言《りつげん》の旨《し》は、綱常《こうじょう》を扶植《ふしょく》し、忠烈を顕揚するに在りというを以《もっ》て、南安《なんあん》の郡守|陳香泉《ちんこうせん》の序、江西《こうせい》の廉使《れんし》劉在園《りゅうざいえん》の評、江西の学使|楊念亭《ようねんてい》の論、広州《こうしゅう》の太守|葉南田《しょうなんでん》の跋《ばつ》を得て世に行わる。幻詭猥雑《げんきわいざつ》の談に、干戈《かんか》弓馬の事を挿《はさ》み、慷慨《こうがい》節義の譚《だん》に、神仙縹緲《しんせんひょうびょう》の趣《しゅ》を交《まじ》ゆ。西遊記《さいゆうき》に似て、而《しか》も其の誇誕《こたん》は少しく遜《ゆず》り、水滸伝に近くして、而も其《そ》の豪快は及ばず、三国志の如《ごと》くして、而も其の殺伐はやゝ少《すくな》し。たゞ其の三者の佳致《かち》を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝《まさ》る所以《ゆえん》にして、其の大体の風度《ふうど》は平妖伝に似たりというべし。憾《うら》むらくは、通篇《つうへん》儒生《じゅせい》の口吻《こうふん》多くして、説話は硬固勃率《こうこぼっそつ》、談笑に流暢尖新《りゅうちょうせんしん》のところ少《すくな》きのみ。
 女仙外史の名は其の実《じつ》を語る。主人公|月君《げっくん》、これを輔《たす》くるの鮑師《ほうし》、曼尼《まんに》、公孫大娘《こうそんたいじょう》、聶隠娘《しょういんじょう》等皆女仙なり。鮑聶《ほうしょう》等の女仙は、もと古伝雑説より取り来《きた》って彩色となすに過ぎず、而《しこう》して月君は即《すなわ》ち山東蒲台《さんとうほだい》の妖婦《ようふ》唐賽児《とうさいじ》なり。賽児の乱をなせるは明《みん》の永楽《えいらく》十八年二月にして、燕《えん》王の簒奪《さんだつ》、建文《けんぶん》の遜位《そんい》と相関するあるにあらず、建文|猶《なお》死せずと雖《いえども》、簒奪の事成って既に十八春秋を経《へ》たり。賽児何ぞ実に建文の為《ため》に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠《ほふ》り、安遠侯《あんえんこう》柳升《りゅうしょう》をして征戦に労し、都指揮《としき》衛青《えいせい》をして撃攘《げきじょう》に力《つと》めしめ、都指揮|劉忠《りゅうちゅう》をして戦歿《せんぼつ》せしめ、山東の地をして一時|騒擾《そうじょう》せしむるに至りたるもの、真に是《こ》れ稗史《はいし》の好題目たり。之《これ》に加うるに賽児が洞見《どうけん》預察の明《めい》を有し、幻怪|詭秘《きひ》の術を能《よ》くし、天書宝剣を得て、恵民《けいみん》布教の事を為《な》せるも、亦《また》真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟《じっせき》既に是《かく》の如《ごと》し。此《これ》を仮《か》り来《きた》りて以《もっ》て建文の位を遜《ゆず》れるに涙を堕《おと》し、燕棣《えんてい》の国を奪えるに歯を切《くいしば》り、慷慨《こうがい》悲憤して以て回天の業を為《な》さんとするの女英雄《じょえいゆう》となす。女仙外史の人の愛読|耽翫《たんがん》を惹《ひ》く所以《ゆえん》のもの、決して尠少《せんしょう》にあらずして、而して又実に一|篇《ぺん》の淋漓《りんり》たる筆墨《ひつぼく》、巍峨《ぎが》たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
 賽児《さいじ》は蒲台府《ほだいふ》の民《たみ》林三《りんさん》の妻、少《わか》きより仏を好み経を誦《しょう》せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之《これ》を郊外に葬《ほうむ》る。賽児墓に祭りて、回《かえ》るさの路《みち》、一山の麓《ふもと》を経たりしに、たま/\豪雨の後にして土崩れ石|露《あら》われたり。これを視《み》るに石匣《せきこう》なりければ、就《つ》いて窺《うかが》いて遂《つい》に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪《き》って人馬となし、剣《けん》を揮《ふる》って咒祝《じゅしゅく》を為《な》し、髪を削って尼となり、教《おしえ》を里閭《りりょ》に布《し》く。祷《いのり》には効あり、言《ことば》には験《げん》ありければ、民|翕然《きゅうぜん》として之に従いけるに、賽児また饑者《きしゃ》には食《し》を与え、凍者には衣を給し、賑済《しんさい》すること多かりしより、終《つい》に追随する者数万に及び、尊《とうと》びて仏母と称し、其《その》勢《いきおい》甚《はなは》だ洪大《こうだい》となれり。官|之《これ》を悪《にく》みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者|董彦杲《とうげんこう》、劉俊《りゅうしゅん》、賓鴻《ひんこう》等、敢然として起《た》って戦い、益都《えきと》、安州《あんしゅう》、※[#「くさかんむり/呂」、第3水準1−90−87]州《きょしゅう》、即墨《そくぼく》、寿光《じゅこう》等、山東諸州|鼎沸《ていふつ》し、官と賊と交々《こもごも》勝敗あり。官兵|漸《ようや》く多く、賊勢日に蹙《しじ》まるに至って賽児を捕え得、将《まさ》に刑に処せんとす。賽児|怡然《いぜん》として懼《おそ》れず。衣を剥《は》いで之を縛《ばく》し、刀《とう》を挙げて之を※[#「石+欠」、第4水準2−82−33]《き》るに、刀刃《とうじん》入る能《あた》わざりければ、已《や》むを得ずして復《また》獄に下し、械枷《か
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