遇《あ》わずして、軍食《ぐんし》足らざるに至る。帰路|楡木川《ゆぼくせん》に次《じ》し、急に病みて崩ず。蓋《けだ》し疑う可《べ》きある也《なり》。永楽帝既に崩じ、建文帝|猶《なお》在《あ》り、帝と史彬《しひん》と客舎《かくしゃ》相《あい》遇《あ》い、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位《さんこくだつい》の叔父《しゅくふ》の死を聞く。世事《せいじ》測る可からずと雖《いえど》も、薙髪《ちはつ》して宮《きゅう》を脱し、堕涙《だるい》して舟に上るの時、いずくんぞ茅店《ぼうてん》の茶後に深仇《しんきゅう》の冥土《めいど》に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦《また》奇なりというべし。知らず応文禅師《おうぶんぜんじ》の如何《いかん》の感を為《な》せるを。即《すなわ》ち彬《ひん》とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山《てんだいさん》に登りたもう。
仁宗《じんそう》の洪※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1−87−58]《こうき》元年正月、建文帝|観音大士《かんおんだいし》を潮音洞《ちょうおんどう》に拝し、五月山に還りたもう。此《この》歳《とし》仁宗また崩じて、帝を索《もと》むること、漸《ようや》くに忘れらる。宣宗《せんそう》の宣徳《せんとく》元年秋八月、従亡《じゅうぼう》諸臣を菴前《あんぜん》に祭りたもう。此《この》歳《とし》漢王《かんおう》高煦《こうこう》反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝《せんとくてい》の叔父《しゅくふ》なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従《したが》って力戦す。材武みずから負《たの》み、騎射を善《よ》くし、酷《はなは》だ燕王に肖《に》たり。永楽帝の儲《ちょ》を立つるに当って、丘福《きゅうふく》、王寧《おうねい》等《ら》の武臣|意《こころ》を高煦に属するものあり。高煦|亦《また》窃《ひそか》に戦功を恃《たの》みて期するところあり。然《しか》れども永楽帝|長子《ちょうし》を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦|怏々《おうおう》たり。仁宗立って其《その》歳《とし》崩じ、仁宗の子大位に即《つ》くに及びて、遂《つい》に反す。高煦の宣徳帝《せんとくてい》に於《お》けるは、猶《なお》燕王の建文帝に於けるが如きなり。其《その》父反して而《しか》して帝たり、高煦父の為《な》せるところを学んで、陰謀至らざる無し。然《しか》れども事発するに至って、帝親征して之を降《くだ》す。高煦|乃《すなわ》ち廃せられて庶人《しょじん》となる。後|鎖※[#「執/糸」、UCS−7E36、416−8]《さしつ》されて逍遙城《しょうようじょう》に内《い》れらるゝや、一日《いちじつ》帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出《い》で、一足《いっそく》を伸《のば》して帝を勾《こう》し地に※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]《ばい》せしむ。帝|大《おおい》に怒って力士に命じ、大銅缸《だいどうこう》を以《もっ》て之を覆《おお》わしむ。高煦|多力《たりき》なりければ、缸《こう》の重き三百|斤《きん》なりしも、項《うなじ》に缸《こう》を負いて起《た》つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃《もや》す。高煦生きながらに焦熱地獄に堕《だ》し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢《あえ》てし、身|幸《さいわい》にして志を得たりと雖も、終《つい》に域外の楡木川《ゆぼくせん》に死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕《お》つ。如是果《にょぜか》、如是報《にょぜほう》、悲《かなし》む可《べ》く悼《いた》む可く、驚く可く嘆ずべし。
二年冬、建文帝|永慶寺《えいけいじ》に宿《しゅく》して詩を題して曰く、
[#ここから2字下げ]
杖錫《じょうしゃく》 来《きた》り遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟に傍《そ》ふ。
塵心《じんしん》 消尽《しょうじん》して 些子《さし》も無し、
受けず 人間の物色の侵すを。
[#ここで字下げ終わり]
これより帝|優游自適《ゆうゆうじてき》、居然として一頭陀《いちずだ》なり。九年|史彬《しひん》死し、程済《ていせい》猶《なお》従う。帝詩を善《よ》くしたもう。嘗《かつ》て賦《ふ》したまえる詩の一に曰く、
[#ここから2字下げ]
牢落《ろうらく》 西南 四十秋、
蕭々《しょうしょう》たる白髪 已《すで》に頭《こうべ》に盈《み》つ。
乾坤《けんこん》 恨《うらみ》あり 家いづくにか在《あ》る。
江漢 情《じょう》無し 水おのづから流る。
長楽 宮中《きゅうちゅう》 雲気散じ、
朝元《ちょうげん》 閣上 雨声収まる。
新蒲《しんぽ》 細柳《さいりゅう》 年々緑に、
野老《やろう》 声を呑《の》んで 哭《こく》して未《いま》だ休《や》まず。
[#ここで字下げ終わり]
又|嘗《かつ》て貴州《きしゅう》金竺《きんちく》長官|司羅永菴《しらえいあん》の壁《へき》に題したまえる七律二章の如き、皆|誦《しょう》す可し。其二に曰く、
[#ここから2字下げ]
楞厳《りょうごん》を閲《けみ》し罷《や》んで 磬《けい》も敲《たた》くに懶《ものう》し。
笑って看《み》る 黄屋《こうおく》 団瓢《だんぴょう》を寄す。
南来 瘴嶺《しょうれい》 千層|※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に、
北望 天門 万里|遙《はるか》なり。
款段《かんだん》 久しく 忘る 飛鳳《ひほう》の輦《れん》、
袈裟《けさ》 新《あらた》に換《かわ》る ※[#「亠/兌」、第3水準1−14−50]龍《こんりゅう》の袍《ほう》。
百官 此《この》日《ひ》 知る何《いず》れの処《ところ》ぞ、
唯《ただ》有り 羣烏《ぐんう》の 早晩に朝する。
[#ここで字下げ終わり]
建文帝|是《かく》の如くにして山青く雲白き処《ところ》に無事の余生を送り、僊人《せんにん》隠士《いんし》の踪跡《そうせき》沓渺《ようびょう》として知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵《しんえん》に潜《ひそ》めども案に上るの日あり、禽《とり》は高空に翔《か》くれども天に宿《しゅく》するに由《よし》無し。忽然《こつぜん》として復《また》宮《きゅう》に入るに及びたもう。其《その》事《こと》まことに意表に出《い》づ。帝の同寓《どうぐう》するところの僧、帝の詩を見て、遂《つい》に建文帝なることを猜知《すいち》し、其《その》詩を窃《ぬす》み、思恩《しおん》の知州《ちしゅう》岑瑛《しんえい》のところに至り、吾《われ》は建文皇帝なりという。意《こころ》蓋《けだ》し今の朝廷また建文を窘《くるし》めずして厚く之《これ》を奉ず可きをおもえるなり。瑛《えい》はこれを聞きて大《おおい》に驚き、尽《ことごと》く同寓《どうぐう》の僧を得て之を京師《けいし》に送り、飛章《ひしょう》して以聞《いぶん》す。帝及び程済《ていせい》も京《けい》に至るの数《すう》に在り。御史《ぎょし》僧を糾《ただ》すに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の陵《りょう》の旁《かたわら》に葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武《こうぶ》十年に生れたまいて、正統《せいとう》五年を距《へだた》る六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に其《その》偽《ぎ》なるを断ず。僧|実《じつ》は鈞州《きんしゅう》白沙里《はくさり》の人、楊応祥《ようおうしょう》というものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を戍《まも》らしめんとす。帝|其《その》中《うち》に在《あ》り。是《ここ》に於《おい》て已《や》むを得ずして其《その》実を告げたもう。御史また今更に大《おおい》に驚きて、此《この》事を密奏す。正統帝《せいとうてい》の御父《おんちち》宣宗《せんそう》皇帝は漢王|高煦《こうこう》の反に会いたまいて、幸《さいわい》に之を降したまいたれども、叔父《しゅくふ》の為《ため》に兵を動《うごか》すに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。其《そ》の宣宗《せんそう》に紹《つ》ぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何《いかん》の感をや為《な》したまえる。御史の密奏を聞召《きこしめ》して、即《すなわ》ち宦官《かんがん》の建文帝に親しく事《つか》えたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮《ごりょう》というものあり、建文帝に事《つか》えたり。乃《すなわ》ち亮をして応文の果して帝なるや否《あらぬ》やを探らしめたもう。亮の応文《おうぶん》を見るや、応文たゞちに、汝《なんじ》は呉亮にあらずや、と云いたもう。亮|猶《なお》然《しか》らざるを申せば、帝|旧《ふる》き事を語りたまいて、爾《なんじ》亮に非《あら》ずというや、と仰《おお》す。亮胸|塞《ふさ》がりて答うる能《あた》わず、哭《こく》して地に伏す。建文帝の左の御趾《おんあし》には黒子《ほくろ》ありたまいしことを思ひ出《い》でゝ、亮近づきて、御趾《おんあし》を摩《ま》し視《み》るに、正《まさ》しく其のしるし御座《おわ》したりければ、懐旧の涙|遏《とど》めあえず、復《また》仰ぎ視《み》ること能《あた》わず、退いて其《その》由《よし》を申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内《せいだい》に入れたてまつる。程済《ていせい》この事を聞きて、今日《こんにち》臣が事終りぬとて、雲南に帰りて庵《あん》を焚《や》き、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏《ろうぶつ》を以て呼ばれたまい、寿《じゅ》をもて終りたまいぬという。
女仙外史《じょせんがいし》に、忠臣等名山幽谷に帝を索《もと》むるを記《き》する、有るが如《ごと》く無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣《ひょうびょうゆうしゅ》の文を為《な》す。永楽亭《えいらくてい》楡木川《ゆぼくせん》の崩《ほう》を記する、鬼母《きぼ》の一剣を受くとなし、又|野史《やし》を引いて、永楽帝|楡木川《ゆぼくせん》に至る、野獣の突至するに遇《あ》い、之《これ》を搏《ばく》す、攫《かく》されてたゞ半躯《はんく》を剰《あま》すのみ、※[#「歹+僉」、第4水準2−78−2]《れん》して而《しか》して匠を殺す、其《その》迹《あと》を泯滅《びんめつ》する所以《ゆえん》なりと。野獣か、鬼母か、吾《われ》之《これ》を知らず。西人《せいじん》或《あるい》は帝|胡人《こじん》の殺すところとなると為す。然《しか》らば則《すなわ》ち帝|丘福《きゅうふく》を尤《とが》めて、而して福と其《その》死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦|危《あやう》きを冒《おか》す、楡木川《ゆぼくせん》の崩、蓋《けだ》し明史《みんし》諱《い》みて書せざるある也。
数《すう》か、数か。紅篋《こうきょう》の度牒《どちょう》、袈裟《けさ》、剃刀《ていとう》、噫《ああ》又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝《ぎょこう》の片舟《へんしゅう》、噫《ああ》又何ぞ奇なるや。吾《われ》嘗《かつ》て明史《みんし》を読みて、其《その》奇に驚き、建文帝と共に所謂《いわゆる》数《すう》なりの語を発せんと欲す。後《のち》又|道衍《どうえん》の伝を読む。中《うち》に記して曰く、道衍|永楽《えいらく》十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧《そう》溥洽《ふこう》というもの繋《つな》がるゝこと久し。願わくは之を赦《ゆる》したまえと。溥洽《ふこう》は建文帝の主録僧《しゅろくそう》なり。初め帝の南京《なんきん》に入るや、建文帝僧となりて遁《のが》れ去り、溥洽|状《じょう》を知ると言うものあり、或《あるい》は溥洽の所に匿《かく》すと云《い》うあり。帝|乃《すなわ》ち他事を以て溥洽を禁《いまし》めて、而《しか》して給事中《きゅうじちゅう》胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS−6FD9、423−8]《こえい》等《ら》に命じて※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]《あまね》く建文帝を物色せしむ。之《これ》を久しくして得ず。溥洽|坐《ざ》して繋《つな》がるゝこと十余年、是《ここ》に至りて帝道衍の言を
前へ
次へ
全24ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング