うとく》、蘇州府《そしゅうふ》の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且《かつ》曰く、聞く君が家|建文《けんぶん》皇帝をかしずくと。彬《ひん》驚いて曰く、全く其《その》事《こと》無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出《い》で、舟に上《のぼ》りて京口《けいこう》に至り、六合《ろくごう》を過ぎ、陸路|襄陽《じょうよう》に至り、廖平が家に至りたもうに、其《その》後《あと》を訊《と》う者ありければ、遂《つい》に意を決して雲南《うんなん》に入りたもう。
永楽《えいらく》元年、帝|雲南《うんなん》の永嘉寺《えいかじ》に留《とど》まりたもう。二年、雲南を出《い》で、重慶《じゅうけい》より襄陽《じょうよう》に抵《いた》り、また東して、史彬《しひん》の家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州《こうしゅう》、天台《てんだい》、雁蕩《がんとう》の遊《ゆう》をなして、又雲南に帰りたもう。
三年、重慶の大竹善慶里《たいちくぜんけいり》に至りたもう。此《この》年《とし》若《もし》くは前年の事なるべし、帝|金陵《きんりょう》の諸臣|惨死《さんし》の事を聞きたまい、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として泣きて曰く、我罪を神明に獲《え》たり、諸人皆我が為《ため》にする也《なり》と。
建文帝《けんぶんてい》は今は僧|応文《おうぶん》たり。心の中《うち》はいざ知らず、袈裟《けさ》に枯木《こぼく》の身を包みて、山水に白雲の跡を逐《お》い、或《あるい》は草庵《そうあん》、或は茅店《ぼうてん》に、閑坐《かんざ》し漫遊したまえるが、燕王《えんおう》今は皇帝なり、万乗の尊に居《お》りて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼《だったん》の兵、遼東《りょうとう》を犯し、永平《えいへい》に寇《あだ》し、二年には韃靼《だったん》と瓦剌《わら》(Oirats, 西部蒙古)との相《あい》和せる為に、辺患無しと雖《いえど》も、三年には韃靼の塞下《さくか》を伺うあり。特《こと》に此《この》年《とし》はタメルラン大兵を起して、道を別失八里《ベシバリ》(Bisbalik)に取り、甘粛《かんしゅく》よりして乱入せんとするの事あり。甘粛は京《けい》を距《さ》る遠しと雖《いえど》も、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す可《べ》し。此《この》事《こと》明史《みんし》には其の外国伝に、朝廷、帖木児《チモル》の道を別失八里《ベシバリ》に仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛《かんしゅく》総兵官《そうへいかん》宋晟《そうせい》に勅して※[#「にんべん+敬」、第3水準1−14−42]備《けいび》せしむ、とあるに過ぎず。然《しか》れども塞外《さくがい》の事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々《しばしば》漠北《ばくほく》を親征せしほどの帝の、帖木児《チモル》東せんとするを聞きては、奚《いずく》んぞ能《よ》く晏然《あんぜん》たらん。太祖の洪武《こうぶ》二十八年、傅安《ふあん》等《ら》を帖木児《チモル》の許《もと》に使《つかい》せしめて、安《あん》等《ら》猶《なお》未《いま》だ還《かえ》らず、忽《たちまち》にして此《この》報を得、疑虞《ぎぐ》する無きを得んや。帖木児《チモル》、父は答剌豈《タラガイ》(Taragai)、元《げん》の至元二年を以《もっ》て生る。生れて跛《ひ》なりしかば、悪《にく》む者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは跛《ひ》の義の波斯《ペルシヤ》語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅《ゆうき》、兵を用い政《まつりごと》を為《な》すを善《よ》くす。太祖《たいそ》の明《みん》の基《もとい》を開くに前後して大《おおい》に勢《いきおい》を得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名|亜非利加《アフリカ》、欧羅巴《ヨウロッパ》に及ぶ。帖木児《チモル》は回教を奉ず。明の初《はじめ》回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児《チモル》の領土に帰《き》す。帖木児《チモル》の甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児《チモル》の許《もと》に在《あ》りしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)記《しる》す、タメルラン、支那《しな》帝使を西班牙《スペイン》帝使の下《しも》に座せしめ、吾《わが》児《こ》たり友たる西帝《せいてい》の使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使《し》の下に坐《ざ》せしむる勿《なか》れと云《い》いしと。又同時タメルラン軍営に事《つか》えしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使|進貢《しんこう》を求む、タメルラン怒って曰く、吾《われ》復《また》進貢せざらん、貢を求めば帝みずから来《きた》れと。乃《すなわ》ち使《つかい》を発して兵を徴し、百八十万を得、将《まさ》に発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部|波斯《ペルシヤ》を征したりしが、其《その》冬《ふゆ》明の太祖及び埃及《エジプト》王の死を知りたりと也《なり》。帖木児《チモル》が意を四方に用いたる知る可し。然《しか》らば則《すなわ》ち燕王の兵を起ししより終《つい》に位《くらい》に即《つ》くに至るの事、タメルラン之《これ》を知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に在《あ》る五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに還《かえ》りぬ。カスチリヤの使《し》と、支那の使とを引見したるは、即《すなわ》ち此《この》歳《とし》にして、其《そ》の翌年|直《ただち》に馬首を東にし、争乱の余《よ》の支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の此《この》報を得るや、宋晟《そうせい》に勅《ちょく》して※[#「にんべん+敬」、第3水準1−14−42]備《けいび》せしむるのみならず、備えたるあること知りぬ可《べ》し。宋晟は好将軍なり、平羌将軍《へいきょうしょうぐん》西寧侯《せいねいこう》たり。かつて御史《ぎょし》ありて晟《せい》の自ら専《もっぱら》にすることを劾《がい》しけるに、帝|聴《き》かずして曰く、人に任ずる専《せん》ならざれば功を成す能《あた》わず、況《いわ》んや大将は一辺を統制す、いずくんぞ能《よ》く文法に拘《かかわ》らんと。又|嘗《かつ》て曰く、西北の辺務は、一に以《もっ》て卿《けい》に委《ゆだ》ぬと。其の材武称許せらるゝ是《かく》の如し。タメルランの来《きた》らんとするや、帝また別に虞《おそ》るゝところあり。蓋《けだ》し燕の兵を挙ぐるに当って、史|之《これ》を明記せずと雖《いえど》も、韃靼《だったん》の兵を借りて以《もっ》て功を成せること、蔚州《いしゅう》を囲めるの時に徴して知る可し。建文|未《いま》だ死せず、従臣の中《うち》、道衍《どうえん》金忠《きんちゅう》の輩の如き策士あって、西北の胡兵《こへい》を借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和《ていか》胡「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS−6FD9、411−12]《こえい》の出《い》づるある、徒爾《とじ》ならんや。建文の草庵《そうあん》の夢、永楽の金殿《きんでん》の夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、試《こころみ》に之を問わんと欲する也。幸《さいわい》にしてタメルランは、千四百〇五年|即《すなわち》永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄|相《あい》下らずして龍闘虎争《りゅうとうこそう》するの惨禍《さんか》を禹域《ういき》の民に被《こうむ》らしむること無くして已《や》みぬ。
四年|応文《おうぶん》は西平侯《せいへいこう》の家に至り、止《とど》まること旬日、五月|庵《いおり》を白龍山《はくりゅうざん》に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為《つく》りて之《これ》を哭《こく》したもう。朝廷|帝《てい》を索《もと》むること密《みつ》なれば、帝深く潜《ひそ》みて出《い》でず。此《この》歳《とし》傅安《ふあん》朝《ちょう》に帰る。安の胡地《こち》を歴游《れきゆう》する数万里、域外に留《とど》まる殆《ほとん》ど二十年、著す所|西遊勝覧詩《せいゆうしょうらんし》あり、後の好事《こうず》の者の喜び読むところとなる。タメルランの後《のち》の哈里《ハリ》(Hali)雄志《ゆうし》無し、使《つかい》を安《あん》に伴わしめ方物《ほうぶつ》を貢《こう》す。六年、白龍庵|災《さい》あり、程済《ていせい》[#ルビの「ていせい」は底本では「ていさい」]募《つの》り葺《ふ》く。七年、建文帝、善慶里《ぜんけいり》に至り、襄陽《じょうよう》に至り、※[#「さんずい+眞」、第3水準1−87−1]《てん》に還《かえ》る。朝廷|密《ひそか》に帝を雲南《うんなん》貴州《きしゅう》の間に索《もと》む。
八年春三月、工部尚書《こうぶしょうしょ》厳震《げんしん》安南《あんなん》に使《つかい》するの途《みち》にして、忽《たちま》ち建文帝に雲南に遇《あ》う。旧臣|猶《なお》錦衣《きんい》にして、旧帝|既《すで》に布衲《ふとつ》なり。震《しん》たゞ恐懼《きょうく》して落涙|止《とど》まらざるあるのみ。帝、我を奈何《いかん》せんとするぞや、と問いたもう。震|対《こた》えて、君は御心《みこころ》のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申《もう》す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其《その》夜《よ》駅亭にみずから縊《くび》れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬《しひん》、程亨《ていこう》、郭節《かくせつ》たま/\至る。三人留まる久しくして、帝これを遣《や》りたまい、今後再び来《きた》る勿《なか》れ、我|安居《あんきょ》す、心づかいすなと仰《おお》す。帝白龍庵を舎《す》てたもう。此《この》歳《とし》永楽帝は去年|丘福《きゅうふく》を漠北《ばくほく》に失えるを以て北京《ほくけい》を発して胡地《こち》に入り、本雅失里《ベンヤシリ》(Benyashili)阿魯台《アルタイ》(Altai)等《ら》と戦いて勝ち、擒狐山《きんこざん》、清流泉《せいりゅうせん》の二処に銘を勒《ろく》して還りたもう。
九年春、白龍庵|有司《ゆうし》の毀《こぼ》つところとなる。夏建文帝|浪穹《ろうきゅう》鶴慶山《かくけいざん》に至り、大喜庵《たいきあん》を建つ。十年|楊応能《ようおうのう》卒し、葉希賢《しょうきけん》次《つ》いで卒す。帝|因《よ》って一弟子《いちていし》を納《い》れて応慧《おうえ》と名づけたもう。十一年|甸《てん》に至りて還り、十二年易数を学びたもう。此《この》歳《とし》永楽帝また塞外《さくがい》に出《い》で、瓦剌《オイラト》を征したもう。皇太孫|九龍口《きゅうりゅうこう》に於《おい》て危難に臨む。十三年建文帝|衡山《こうざん》に遊ばせたもう。十四年、帝|程済《ていせい》に命じて従亡伝《じゅうぼうでん》を録せしめ、みずから叙《じょ》を為《つく》らる。十五年|史彬《しひん》白龍庵に至る、庵《あん》を見ず、驚訝《きょうが》して帝を索《もと》め、終《つい》に大喜庵《たいきあん》に遇《あ》い奉る。十一月帝|衡山《こうざん》に至りたもう、避くるある也。十六年、黔《きん》に至りたもう。十七年始めて仏書を観《み》たもう。十八年|蛾眉《がび》に登り、十九年|粤《えつ》に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此《この》歳《とし》阿魯台《アルタイ》反す。二十年永楽帝、阿魯台《アルタイ》を親征す。二十一年建文帝|章台山《しょうだいさん》に登り、漢陽《かんよう》に遊び、大別山《たいべつざん》に留《とど》まりたもう。
二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月|史彬《しひん》と旅店に相《あい》遇《あ》う。此《この》歳《とし》阿魯台《アルタイ》大同《だいどう》[#ルビの「だいどう」は底本では「たいどう」]に寇《あだ》す。去年|阿魯台《アルタイ》を親征し、阿魯台《アルタイ》遁《のが》れて戦わず、師|空《むな》しく還る。今又|塞《さい》を犯す。永楽帝また親征す。敵に
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