十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州《そしゅう》劉家河《りゅうかか》より海《かい》に泛《うか》びて福建《ふくけん》に至り、福建|五虎門《ごこもん》より帆を揚げて海に入る。閲《えつ》三年にして、五年九月|還《かえ》る。建文帝の事、得る有る無し。而《しか》れども諸番国《しょばんこく》の使者|和《か》に随《したが》って朝見し、各々《おのおの》其《その》方物《ほうぶつ》を貢《こう》す。和《か》又|三仏斉国《さんぶつせいこく》の酋長《しゅうちょう》を俘《とりこ》として献ず。帝|大《おおい》に悦《よろこ》ぶ。是《これ》より建文の事に関せず、専《もは》ら国威を揚げしめんとして、再三|和《か》を出《いだ》す。和の使《つかい》を奉ずる、前後七回、其《そ》の間、或《あるい》は錫蘭山《セイロンざん》(Ceylon)の王|阿烈苦奈児《アレクナル》と戦って之を擒《とりこ》にして献じ、或《あるい》は蘇門答剌《スモタラ》(Sumotala)の前の前の偽王《ぎおう》の子|蘇幹剌《スカンラ》と戦って、其《その》妻子を併《あわ》せて俘《とりこ》として献じ、大《おおい》に南西諸国に明《みん》の威を揚げ、遠く勿魯漠斯《ホルムス》(Holumusze ペルシヤ)麻林《マリン》(Mualin? アフリカ?)祖法児《ズファル》(Dsuhffar アラビヤ)天方《てんほう》(“Beitullah”House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史《みんし》外国伝《がいこくでん》西南方のやゝ詳《つまびらか》なるは、鄭和に随行したる鞏珍《きょうちん》の著わせる西洋番国志《せいようばんこくし》を採りたるに本《もと》づく歟《か》という。
胡※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「火」」、UCS−6FD9、402−1]《こえい》等《ら》もまた得る無くして已《や》みぬ。然《しか》も張三※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ちょうさんぼう》を索《もと》めしこと、天下の知る所たり。乃《すなわ》ち三※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]の居《お》りし所の武当《ぶとう》 大和山《たいかざん》に観《かん》を営み、夫《ふ》を役《えき》する三十万、貲《し》を費《ついや》す百万、工部侍郎《こうぶじろう》郭※[#「王+追」、402−3]《かくつい》、隆平侯《りゅうへいこう》張信《ちょうしん》等《ら》、事に当りしという。三※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]|嘗《かつ》て武当の諸《しょ》巌壑《がんがく》に游《あそ》び、此《この》山《やま》異日必ず大《おおい》に興《おこ》らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。
建文帝《けんぶんてい》は如何《いか》にせしぞや。伝えて曰《いわ》く、金川門《きんせんもん》の守《まもり》を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修《かんりんいんへんしゅう》程済《ていせい》白《もう》す、出亡《しゅつぼう》したまわんには如《し》かじと。少監《しょうかん》王鉞《おうえつ》跪《ひざまず》いて進みて白《もう》す。昔|高帝《こうてい》升遐《しょうか》したもう時、遺篋《いきょう》あり、大難に臨まば発《あば》くべしと宣《のたま》いぬ。謹んで奉先殿《ほうせんでん》の左に収め奉れりと。羣臣《ぐんしん》口々に、疾《と》く出《いだ》すべしという。宦者《かんじゃ》忽《たちまち》にして一の紅《くれない》なる篋《かたみ》を舁《か》き来《きた》りぬ。視《み》れば四囲は固《かた》むるに鉄を以てし、二|鎖《さ》も亦《また》鉄を灌《そそ》ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大《おおい》に慟《なげ》きたまい、今はとて火を大内《たいだい》に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此《この》時《とき》程済は辛くも篋《かたみ》を砕き得て、篋中《きょうちゅう》の物を取出《とりいだ》す。出《い》でたる物は抑《そも》何ぞ。釈門《しゃくもん》の人ならで誰《たれ》かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒《どちょう》というもの三|張《ちょう》ありたり。度牒は人の家を出《いで》て僧となるとき官の可《ゆる》して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文《おうぶん》の名の録《ろく》され、一には応能《おうのう》の名あり、一には応賢《おうけん》の名あり。袈裟《けさ》、僧帽、鞋《くつ》、剃刀《かみそり》、一々|倶《とも》に備わりて、銀十|錠《じょう》添わり居《い》ぬ。篋《かたみ》の内に朱書あり、之《これ》を読むに、応文は鬼門《きもん》より出《い》で、余《よ》は水関《すいかん》御溝《ぎょこう》よりして行き、薄暮にして神楽観《しんがくかん》の西房《せいぼう》に会せよ、とあり。衆臣驚き戦《おのの》きて面々|相《あい》看《み》るばかり、しばらくは言《ものい》う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰《おお》[#ルビの「おお」は底本では「おおせ」]せあり。帝の諱《いみな》は允※[#「火+文」、第4水準2−79−61]《いんぶん》、応文《おうぶん》の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明《みん》の基《もとい》を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉《たま》いたれ、元《げん》の順宗《じゅんそう》の至正《しせい》四年|年《とし》十七におわしける時は、疫病|大《おおい》に行われて、御父《おんちち》御母兄上幼き弟皆|亡《う》せたまえるに、家貧にして棺槨《かんかく》の供《そなえ》だに為《な》したもう能《あた》わず、藁葬《こうそう》という悲しくも悲しき事を取行《とりおこな》わせ玉わんとて、仲《なか》の兄と二人してみずから遺骸《いがい》を舁《か》きて山麓《さんろく》に至りたまえるに、※[#「糸+更」、第4水準2−84−30]《なわ》絶えて又|如何《いかん》ともする能《あた》わず、仲の兄|馳《はせ》還《かえ》って※[#「糸+更」、第4水準2−84−30]を取りしという談だに遺《のこ》りぬ。其の仲の兄も亦《また》亡せたれば、孤身|依《よ》るところなく、遂《つい》に皇覚寺《こうかくじ》に入りて僧と為《な》り、食《し》を得んが為《ため》に合※[#「さんずい+肥」、第3水準1−86−85]《ごうひ》に至り、光《こう》固《こ》汝《じょ》頴《えい》の諸州に托鉢《たくはつ》修行し、三歳の間は草鞋《そうあい》竹笠《ちくりゅう》、憂《う》き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因《にょぜいん》、如是縁《にょぜえん》、今また袈裟《けさ》念珠《ねんじゅ》の人たらんとす。不思議というも余《あま》りあり。程済|即《すなわ》ち御意に従いて祝髪《しゅくはつ》しまいらす。万乗の君主金冠を墜《おと》し、剃刀《ていとう》の冷光|翠髪《すいはつ》を薙《な》ぐ。悲痛何ぞ能《よ》く堪《た》えんや。呉王《ごおう》の教授|揚応能《ようおうのう》は、臣が名|度牒《どちょう》に応ず、願わくは祝髪して随《したが》いまつらんと白《もう》す。監察御史《かんさつぎょし》葉希賢《しょうきけん》、臣が名は賢《けん》、応賢《おうけん》たるべきこと疑《うたがい》無しと白《もう》す。各《おのおの》髪を剃《そ》り衣《い》を易《か》えて牒《ちょう》を披《ひら》く。殿《でん》に在りしもの凡《およ》そ五六十人、痛哭《つうこく》して地に倒れ、倶《とも》に矢《ちか》って随《したが》いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾《さしまね》いて去らしめたもう。御史《ぎょし》曾鳳韶《そうほうしょう》、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後《のち》果して燕王の召《めし》に応《おう》ぜずして自殺しぬ。諸臣|大《おおい》に慟《なげ》きて漸《ようや》くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟《いっしゅう》の岸に在《あ》るあり。誰《たれ》ぞと見るに神楽観《しんがくかん》の道士|王昇《おうしょう》にして、帝を見て叩頭《こうとう》して万歳を称《とな》え、嗚呼《ああ》、来《きた》らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高《こう》皇帝の命を蒙《こうむ》りて、此《ここ》にまいり居《い》たり、と申す。乃《すなわ》ち舟に乗じて太平門《たいへいもん》に至りたもう。昇《しょう》導きまいらせて観《かん》に至れば、恰《あたか》も已《すで》に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能《ようおうのう》、葉希賢《しょうきけん》等《ら》十三人同じく至る。合《ごう》二十二人、兵部侍郎《へいぶじろう》廖平《りょうへい》、刑部侍郎《けいぶじろう》金焦《きんしょう》、編修《へんしゅう》趙天泰《ちょうてんたい》、検討《けんとう》程亨《ていこう》、按察使《あんさつし》王良《おうりょう》、参政《さんせい》蔡運《さいうん》、刑部郎中《けいぶろうちゅう》梁田玉《りょうでんぎょく》、中書舎人《ちゅうしょしゃじん》梁良玉《りょうりょうぎょく》、梁中節《りょうちゅうせつ》、宋和《そうか》、郭節《かくせつ》、刑部司務《けいぶしむ》馮※[#「さんずい+寉」、405−12]《ひょうかく》、鎮撫《ちんぶ》牛景先《ぎゅうけいせん》、王資《おうし》、劉仲《りゅうちゅう》、翰林侍詔《かんりんじしょう》鄭洽《ていこう》、欽天監正《きんてんかんせい》王之臣《おうししん》、太監《たいかん》周恕《しゅうじょ》、徐王府賓輔《じょおうふひんほ》史彬《しひん》と、楊応能《ようおうのう》、葉希賢《しょうきけん》、程済《ていせい》となり。帝、今後はたゞ師弟を以《もっ》て称し、必ずしも主臣の礼に拘《かかわ》らざるべしと宣《のたま》う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於《おい》て人々に謂《い》って曰く、諸人の随《したが》わんことを願うは、固《もと》よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累《るい》無くして、膂力《りょりょく》の捍《ふせ》ぎ衛《まも》るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余《よ》は倶《とも》に遙《はるか》に応援を為《な》さば、可ならんと。帝も、然《しか》るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘《びく》と称し、程済は道人《どうじん》と称して、常に左右に侍し、馮※[#「さんずい+寉」、406−8]《ひょうかく》[#「馮※[#「さんずい+寉」、406−8]」は底本では「憑※[#「さんずい+寉」、406−8]」]は馬二子《ばじし》と称し、郭節《かくせつ》は雪菴《せつあん》と称し、宋和《そうか》は雲門僧《うんもんそう》と称し、趙天泰《ちょうてんたい》は衣葛翁《いかつおう》と称し、王之臣《おうししん》は補鍋《ほか》を以《もっ》て生計を為さんとして老補鍋《ろうほか》と称し、牛景先《ぎゅうけいせん》は東湖樵夫《とうこしょうふ》と称し、各々《おのおの》姓を埋《うず》め名を変じて陰陽《いんよう》に扈従《こしょう》せんとす。帝は※[#「さんずい+眞」、第3水準1−87−1]南《てんなん》に往《ゆ》きて西平侯《せいへいこう》に依《よ》らんとしたもう。史彬《しひん》これを危ぶみて止《とど》め、臣《しん》等《ら》の中の、家いさゝか足りて、旦夕《たんせき》に備う可《べ》き者の許《もと》に錫《しゃく》を留《とど》めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白《もう》す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽《ていこう》、郭節、王資、史彬《しひん》、梁良玉の七家を、かわる/″\主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉《しょう》、楊、牛、馮《ひょう》、宋、史なり。余《よ》は皆涙を揮《ふる》って別れまいらす。帝は道を※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽《りつよう》に取りて、呉江《ごこう》の黄渓《こうけい》の史彬の家に至りたもうに、月の終《おわり》を以て諸臣また漸《ようや》く相《あい》聚《あつ》まりて伺候《しこう》す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王|位《くらい》に即《つ》きて、諸官員の職を抛《なげう》って遯去《のがれさ》りし者の官籍を削る。呉江《ごこう》の邑丞《ゆうじょう》鞏徳《きょ
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