んや 老《おい》の会臨《かいりん》するを。
志士は 景光を惜《おし》む、
麓《ふもと》に登れば 已《すで》に岑《みね》を知る。
毎《つね》に聞く 前世《ぜんせい》の事、
頗《すこぶ》る見る 古人の心。
逝《ゆ》く者 まことに息《やす》まず、
将来 誰《たれ》か今に嗣《つ》がむ。
百年 当《まさ》に成る有るべし、
泯滅《びんめつ》 寧《なん》ぞ欽《うらや》むに足らんや。
毎《つね》に憐《あわれ》む 伯牙《はくが》の陋《ろう》にして、
鍾《しょう》 死して 其《その》琴《こと》を破れるを。
自《みずか》ら得《う》るあらば 苟《まこと》に伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも 知音《ちいん》を求めんや。
俯《ふ》しては観《み》る 水中の※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS−9BC8、382−9]《こうお》[#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS−9BC8、382−9]」は底本では「※[#「條」の「木」に代えて「黒の旧字」、第3水準1−14−46]」]、
仰いでは覩《み》る 雲際《うんさい》の禽《とり》。
真楽《しんらく》 吾《われ》 隠さず、
欣然《きんぜん》として 煩襟《はんきん》を豁《ひろ》うす。
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 前半は巵酒《ししゅ》 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外《そと》に待つ無きをいう。伯牙を陋《ろう》として破琴を憐《あわれ》み、荘子《そうじ》を引きて不隠《ふいん》を挙ぐ。それ外より入る者は、中《うち》に主《しゅ》たる無し、門より入る者は家珍《かちん》にあらず。白《さかずき》を挙げて楽《たのしみ》となす、何ぞ是《こ》れ至楽ならん。
 遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神|夐《はるか》に殊《こと》なり。意気の俊邁《しゅんまい》なるに至っては、互《たがい》に相《あい》遜《ゆず》らずと雖《いえど》も、正学先生《せいがくせんせい》の詩は竟《つい》に是れ正学先生の詩にして、其の帰趣《きしゅ》を考うるに、毎《つね》に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側《きそく》詭※[#「言+皮」、UCS−8A56、383−8]《きひ》の言を為《な》さず、放逸《ほういつ》曠達《こうたつ》の態《たい》無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋《けだ》し壮時の作と雖も、其の本色《ほんしょく》なり。談詩《だんし》五首の一に曰く、

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世《よ》を挙《こぞ》って 皆|宗《そう》とす 李杜《りと》の詩を。
知らず 李杜の 更に誰《たれ》を宗とせるを。
能《よ》く 風雅 無窮の意を探《さぐ》らば、
始めて是れ 乾坤《けんこん》 絶妙の詞《し》ならん。
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第二に曰く、

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道徳を 発揮して 乃《すなわ》ち文を成す、
枝葉 何ぞ曾《かつ》て 本根《ほんこん》[#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
末俗《ばつぞく》 工を競ふ 繁縟《はんじょく》の体《たい》、
千秋の精意 誰《たれ》と与《とも》に論ぜん。

 是《こ》れ正学先生の詩に於《お》けるの見《けん》なり。華《か》を斥《しりぞ》け実《じつ》を尚《たっと》び、雅を愛し淫《いん》を悪《にく》む。尋常一様|詩詞《しし》の人の、綺麗《きれい》自ら喜び、藻絵《そうかい》自ら衒《てら》い、而《しこう》して其の本旨正道を逸し邪路に趨《はし》るを忘るゝが如きは、希直《きちょく》の断じて取らざるところなり。希直の父|愚庵《ぐあん》、師|潜渓《せんけい》の見も、亦《また》大略|是《かく》の如しと雖《いえど》も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
 孝孺《こうじゅ》の父は洪武《こうぶ》九年を以て歿《ぼっ》し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年|呉※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]《ごちん》の薦《すすめ》を以て太祖に見《まみ》ゆ。太祖|其《そ》の挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂《い》って曰く、此《この》荘士、当《まさ》に其《その》才を老いしめて以て汝《なんじ》を輔《たす》けしめんと。閲《えつ》十年にして又|薦《すす》められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非《あら》ずと。太祖が孝孺を器重《きちょう》して、而《しか》も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於《おい》て慮《りょ》を致すもの多し。然《しか》れども此《これ》は強いて解す可《べ》からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間《あいだ》に於《おい》て、たま/\仇家《きゅうか》の為《ため》に累《るい》せられて孝孺の闕下《けっか》に械送《かいそう》せられし時、太祖|其《その》名《な》を記し居たまいて特《こと》に釈《ゆる》されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳|漸《ようや》く高くして、太祖の第十一子|蜀王《しょくおう》椿《ちん》、孝孺を聘《へい》して世子の傅《ふ》となし、尊ぶに殊礼《しゅれい》を以《もっ》てす。王の孝孺に賜《たま》うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲《けみ》す孔《はなは》だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に

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謙《けん》にして以て みづから牧《ぼく》し、
卑《ひく》うして以て みづから持《じ》す。
雍容《ようよう》 儒雅《じゅが》、
鸞鳳《らんぽう》の 儀あり。
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とあり。又其の賜詩《しし》三首の一に

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文章 金石を奏し、
衿佩《きんぱい》 儀刑《ぎけい》を覩《み》る。
応《まさ》に世々《よよ》 三|輔《ぽ》に遊ぶべし、
焉《いずく》んぞ能《よ》く 一|経《けい》に困《こん》せん。
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の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦《また》知るべし。王孝孺の読書の廬《ろ》に題して正学《せいがく》という。孝孺はみずから遜志斎《そんしさい》という。人の正学先生というものは、実に蜀《しょく》王の賜題に因《よ》るなり。
 太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣|交々《こもごも》孝孺を薦《すす》む。乃《すなわ》ち召されて翰林《かんりん》に入る。徳望|素《もと》より隆《さか》んにして、一時の倚重《きちょう》するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢《しじゅん》を承《う》くること殆《ほとん》ど間《ひま》無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄《しょうげき》皆孝孺の手に出《い》づ。三年より四年に至り、孝孺|甚《はなは》だ煎心《せんしん》焦慮《しょうりょ》すと雖も、身武臣にあらず、皇師|数々《しばしば》屈して、燕兵|遂《つい》に城下に到《いた》る。金川門《きんせんもん》守《まもり》を失いて、帝みずから大内《たいだい》を焚《や》きたもうに当り、孝孺|伍雲《ごうん》等《ら》の為《ため》に執《とら》えられて獄に下さる。
 燕王志を得て、今既に帝たり。素《もと》より孝孺の才を知り、又|道衍《どうえん》の言を聴《き》く。乃《すなわ》ち孝孺を赦《ゆる》して之《これ》を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋《つな》ぎ、孝孺の弟子《ていし》廖※[#「金+庸」、第3水準1−93−36]《りょうよう》廖銘《りょうめい》をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯《とくけいこう》廖権《りょうけん》の子なり。孝孺怒って曰く、汝《なんじ》等《ら》予に従って幾年の書を読み、還《かえ》って義の何たるを知らざるやと。二人説く能《あた》わずして已《や》む。帝|猶《なお》孝孺を用いんと欲し、一日に諭《ゆ》を下すこと再三に及ぶ。然《しか》も終《つい》に従わず。帝即位の詔《みことのり》を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃《すなわ》ち召して獄より出《い》でしむ。孝孺|喪服《そうふく》して入り、慟哭《どうこく》して悲《かなし》み、声|殿陛《でんへい》に徹す。帝みずから榻《とう》を降《くだ》りて労《ねぎ》らいて曰く、先生労苦する勿《なか》れ。我|周公《しゅうこう》の成王《せいおう》を輔《たす》けしに法《のっと》らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在《あ》ると。帝曰く、渠《かれ》みずから焚死《ふんし》すと。孝孺曰く、成王|即《もし》存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君《ちょうくん》に頼《よ》る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕《ちん》が家事なり、先生はなはだ労苦する勿《なか》れと。左右をして筆札《ひっさつ》を授けしめて、おもむろに詔《みことのり》して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺|大《おおい》に数字を批して、筆を地に擲《なげう》って、又|大哭《たいこく》し、且《かつ》罵《ののし》り且|哭《こく》して曰く、死せんには即《すなわ》ち死せんのみ、詔《しょう》は断じて草す可からずと。帝|勃然《ぼつぜん》として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能《よ》く遽《にわか》に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何《いか》にせんやと、声|甚《はなは》だ※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》し。帝もと雄傑剛猛なり、是《ここ》に於て大《おおい》に怒《いか》って、刀を以て孝孺の口を抉《えぐ》らしめて、復《また》之を獄に錮《こ》す。


 孝孺の宋潜渓《そうせんけい》に知らるゝや、蓋《けだ》し其《そ》の釈統《しゃくとう》三|篇《ぺん》と後正統論《こうせいとうろん》とを以《もっ》てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其《その》大旨、義理の正に拠《よ》って、情勢の帰《き》を斥《しりぞ》け、王道を尚《たっと》び、覇略を卑み、天下を全有して、海内《かいだい》に号令する者と雖《いえど》も、其《その》道に於《おい》てせざる者は、目《もく》して、正統の君主とすべからずとするに在《あ》り。秦《しん》や隋《ずい》や王※[#「くさかんむり/奔」、UCS−83BE、390−3]《おうもう》や、晋宋《しんそう》・斉梁《せいりょう》や、則天《そくてん》や符堅《ふけん》や、此《これ》皆これをして天下を有せしむる数百年に踰《こ》ゆと雖《いえど》も、正統とす可《べ》からずと為《な》す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈《あに》其の天下を有するを謂《い》わんやと。又曰く、天下を有して而《しか》も正統に比す可からざる者三、簒臣《さんしん》也《なり》、賊后《ぞくこう》也、夷狄《いてき》也と。孝孺|篇後《へんご》に書して曰く、予が此《この》文を為《つく》りてより、未《いま》だ嘗《かつ》て出して以て人に示さず。人の此《この》言を聞く者、咸《みな》予を※[#「此/言」、第4水準2−88−57]笑《ししょう》して以て狂と為《な》し、或《あるい》は陰《いん》に之《これ》を詆詬《ていこう》す。其の然《しか》りと謂《い》う者は、独り予が師|太史公《たいしこう》と、金華《きんか》の胡公翰《ここうかん》とのみと、夫《そ》れ正統変統の論、もとより史の為《ため》にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈《あに》其の天下を有するを謂わんやと為《な》す。是《かく》の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝|簒奪《さんだつ》の君に面し、其の天下に誥《つ》ぐるの詔《みことのり》を草せんことを逼《せま》らる。嗚呼《ああ》、運命|遭逢《そうほう》も亦《また》奇なりというべし。孝孺又|嘗《かつ》て筆の銘を為《つく》る。曰く、

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妄《みだり》に動けば 悔《くい》あり、
道は 悖《もと》る可からず。
汝《なんじ》 才ありと謂《い》ふ勿《なか》れ、
後に 万世あり。
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又|嘗《かつ》て紙の銘を為る。曰く、

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之《これ》を以《もっ》て言を立つ、其の道を載《の》せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教《おしえ》を施す、其の
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