同じからず、僅《わずか》に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著《えいはつこうちょ》や斯《かく》の如し、後《のち》四春秋ならしめば、則《すなわ》ち其の至るところ又|如何《いか》なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿《おうようしょうけい》、蘇長公《そちょうこう》の輩《はい》は、姑《しば》らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場《じょう》に角逐《かくちく》せば、孰《たれ》か後となり孰《いずれ》か先となるを知らざる也。今|此《この》説を為《な》す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当《まさ》に其の知言にして、生《せい》に許す者の過《か》に非《あら》ざるを信ずべき也。然《しか》りと雖《いえど》も予の生に許すところの者、寧《なん》ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜《おし》み、為《ため》に是《この》詩を賦《ふ》す、既に其の素有の善を揚げ、復《また》勗《つと》むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞《ことば》を行《や》る自在《じざい》にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、

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生《せい》は乃《すなわ》ち 周《しゅう》の容刀《たまのさや》。
生は乃ち 魯《ろ》の※[#「王+與」、第3水準1−88−33]※[#「王+番」、第4水準2−81−1]《よきたま》。
道|真《しん》なれば 器《き》乃ち貴し、
爰《なん》ぞ須《もち》ゐん 空言を用ゐるを。
孳々《じじ》として 務めて践形《せんけい》し、
負《そむ》く勿《なか》れ 七尺の身に。
敬義 以《もっ》て衣《い》と為《な》し、
忠信 以て冠《かん》と為し、
慈仁 以て佩《はい》と為し、
廉知《れんち》 以て※[#「般/革」、UCS−97B6、374−5]《かわおび》と為し、
特《ひと》り立つて 千古を睨《にら》まば、
万象 昭《あき》らかにして昏《くら》き無からむ。
此《この》意《こころ》 竟《つい》に誰《たれ》か知らん、
爾《なんじ》が為《ため》に 言《ことば》諄諄《じゅんじゅん》たり。
徒《いたずら》に 強《しいて》聒《ものい》ふと謂《おも》ふ勿《なか》れ、
一一 宜《よろ》しく紳《しん》に書《しょ》すべし。
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 孝孺|後《のち》に至りて此詩を録して人に視《しめ》すの時、書して曰く、前輩《せんぱい》後学《こうがく》を勉《つと》めしむ、惓惓《けんけん》の意《こころ》、特《ひと》り文辞のみに在《あ》らず、望むらくは相《あい》与《とも》に之を勉めんと。臨海《りんかい》の林佑《りんゆう》、葉見泰《しょうけんたい》等《ら》、潜渓の詩に跋《ばつ》して、又|各《みな》宋太史《そうたいし》の期望に酬《むく》いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負《そむ》かざりき。


 孝孺《こうじゅ》の集《しゅう》は、其《その》人《ひと》天子の悪《にく》むところ、一世の諱《い》むところとなりしを以《もっ》て、当時絶滅に帰し、歿後《ぼつご》六十年にして臨海《りんかい》の趙洪《ちょうこう》が梓《し》に附せしより、復《また》漸《ようや》く世に伝わるを得たり。今|遜志斎集《そんしさいしゅう》を執って之《これ》を読むに、蜀王《しょくおう》が所謂《いわゆる》正学先生《せいがくせんせい》の精神面目|奕々《えきえき》として儼存《げんそん》するを覚ゆ。其《そ》の幼儀《ようぎ》雑箴《ざっしん》二十首を読めば、坐《ざ》、立《りつ》、行《こう》、寝《しん》より、言《げん》、動《どう》、飲《いん》、食《しょく》等に至る、皆道に違《たが》わざらんことを欲して、而して実践|躬行底《きゅうこうてい》より徳を成さんとするの意、看取すべし。其《その》雑銘を読めば、冠《かん》、帯《たい》、衣《い》、※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]《く》より、※[#「竹かんむり/垂」、UCS−7BA0、376−1]《すい》[#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS−7BA0、376−1]」は底本では「※[#「竹かんむり/「垂」の「ノ」の下に「一」を加える」、376−1]」]、鞍《あん》、轡《れん》、車《しゃ》等に至る、各物一々に湯《とう》の日新《にっしん》の銘に則《のっと》りて、語を下し文を為《な》す、反省修養の意、看取すべし。雑誡《ざっかい》三十八章、学箴《がくしん》九首、家人箴《かじんしん》十五首、宗儀《そうぎ》九首等を読めば、希直《きちょく》の学を為《な》すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋《いた》らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視《まっし》し、恒《つね》に王道を明らかにし太平を致すを以て己《おの》が任と為すと。(是《これ》鄭暁《ていぎょう》の方先生伝《ほうせんせいでん》に本《もと》づく)真《まこと》に然《しか》り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯《しんし》なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微《び》なるは、四蠹《しと》之《これ》を害すればなり。姦言《かんげん》を文《かざ》り、近事《きんじ》を※[#「てへん+蹠のつくり」、第3水準1−84−91]《と》り、時勢を窺伺《きし》し、便《べん》に趨《はし》り隙《げき》に投じ、冨貴《ふうき》を以て、志と為《な》す。此《これ》を利禄《りろく》の蠹《と》と謂《い》う。耳剽《じひょう》し口衒《こうげん》し、色《いろ》を詭《いつわ》り辞《ことば》を淫《いん》にし、聖賢に非《あら》ずして、而《しか》も自立し、果敢《かかん》大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是《これ》を名を務むるの蠹《と》という。鉤※[#「てへん+蹠のつくり」、第3水準1−84−91]《こうせき》して説を成し、上古に合《がっ》するを務め、先儒を毀※[#「此/言」、第4水準2−88−57]《きし》し、以謂《おもえ》らく我に及ぶ莫《な》き也《なり》と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁《くんこ》の蠹《と》という。道徳の旨を知らず、雕飾《ちゅうしょく》綴緝《てっしゅう》して、以て新奇となし、歯を鉗《かん》し舌を刺《さ》して、以て簡古と為し、世に於《おい》て加益するところ無し。是を文辞《ぶんじ》の蠹《と》という。四者|交々《こもごも》作《おこ》りて、聖人の学|亡《ほろ》ぶ。必ずや諸《これ》を身に本《もと》づけ、諸を政教に見《あら》わし、以て物《もの》を成す可き者は、其《そ》れ惟《ただ》聖人の学|乎《か》、聖道を去って而《しこう》して循《したが》わず、而して惟《ただ》蠹《と》にこれ帰す。甚しい哉《かな》惑えるや、と。孝孺の此《この》言《げん》に照《てら》せば、鄭暁《ていぎょう》の伝うるところ、実に虚《むな》しからざる也。四箴《ししん》の序の中《うち》の語に曰く、天に合《がっ》して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生《せんけいせんせい》が謂《い》える所の、特《ひと》り立って千古を睨《にら》み、万象|昭《てら》して昏《くら》き無しの境《きょう》に入れるを看《み》るべし。又|其《そ》の克畏《こくい》の箴《しん》を読めば、あゝ皇《おお》いなる上帝、衷《ちゅう》を人に降《くだ》す、といえるより、其の方《まさ》に昏《くら》きに当ってや、恬《てん》として宜《よろ》しく然《しか》るべしと謂《い》うも、中夜《ちゅうや》静かに思えば夫《そ》れ豈《あに》吾が天ならんや、廼《すなわ》ち奮って而して悲《かなし》み、丞《すみ》やかに前轍《ぜんてつ》を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿《なか》れ、嗜《たしな》む所を嗜む勿れ、といい、表裏|交々《こもごも》修めて、本末一致せんといえる如き、恰《あたか》も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流《ちょうりゅう》せるを見る。父|克勤《こくきん》の、昼の為せるところ、夜は則《すなわ》ち天に白《もう》したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟《こうもう》の正大純粋の教《おしえ》の徳光《とくこう》恵風《けいふう》に浸涵《しんかん》して、真に心胸《しんきょう》の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看《み》るべき也。
 孝孺既に文芸を末視《まっし》し、孔孟の学を為《な》し、伊周《いしゅう》の事に任ぜんとす。然《しか》れども其《そ》の文章|亦《また》おのずから佳、前人評して曰く、醇※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]博朗《じゅんほうばくろう》[#「醇※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348−9]博朗」]、沛乎《はいこ》として余《あまり》有り、勃乎《ぼっこ》として禦《ふせ》ぐ莫《な》しと。又曰く、醇深雄邁《じゅんしんゆうまい》と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋《けだ》し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観《み》る可し。其の王仲縉感懐《おうちゅうしんかんかい》の韻《いん》に次《じ》する詩の末に句あり、曰く

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壮士 千載《せんざい》の心、
豈《あに》憂へんや 食《し》と衣《い》とを。
由来 海《かい》に浮《うか》ばんの志、
是《こ》れ 軒冕《けんべん》の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚《たっと》ぶ、
富貴 復《また》奚《なに》為《す》るものぞ。
賢にして有り 陋巷《ろうこう》の楽《たのしみ》、
聖にして有り 西山《せいざん》の饑《うえ》。
頤《おとがい》を朶《た》る 失ふところ多し、
苦節 未《いま》だ非とす可からず。
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 道衍《どうえん》は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子《とうきょし》は歌って曰く、苦節|貞《かた》くすべからずと。遜志斎《そんしさい》は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量《はくいりょう》何ぞ隘《せま》きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑《うえ》と。孝孺又其の※[#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS−7020、380−4]陽《えいよう》[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」]を過《よ》ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因《よ》って首陽《しゅよう》を念《おも》う、西顧《せいこ》すれば清風《せいふう》生ずと。又|乙丑中秋後《いっちゅうちゅうしゅうご》二日|兄《あに》に寄する詩の句に曰く、苦節|伯夷《はくい》を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、※[#「角+光」、第3水準1−91−91]籌《こうちゅう》又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直《きちょく》は俗にして、飲《いん》の箴《しん》に、酒の患《うれい》たる、謹者《きんしゃ》をして荒《すさ》み、荘者をして狂し、貴者をして賤《いや》しく、存者《そんしゃ》をして亡《ほろ》ばしむ、といい、酒巵《しゅし》の銘には、親《しん》を洽《あまね》くし衆を和するも、恒《つね》に斯《ここ》に於《おい》てし、禍《わざわい》を造り敗《はい》をおこすも、恒《つね》に斯《ここ》に於てす、其|悪《あく》に懲り、以て善に趨《はし》り、其儀を慎《つつし》むを尚《たっと》ぶ、といえり。逃虚子は仏《ぶつ》を奉じて、而《しか》も順世《じゅんせい》外道《げどう》の如く、遜志斎は儒を尊んで、而《しか》も浄行者《じょうぎょうしゃ》の如し。嗚呼《ああ》、何ぞ其の奇なるや。然《しか》も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳《じょうし》南楼《なんろう》に登るの詩に曰く、

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昔時《せきじ》 喜んで酒を飲み、
白《さかずき》を挙げて 深きを辞せざりき。
茲《ここ》に中歳《ちゅうさい》に及んでよりこのかた、
已《すで》に復《また》 人の斟《く》むを畏《おそ》る。
後生《わかきもの》 ゆるがせにする所多きも、
豈《あに》識《し》ら
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