咲《わら》う可き也、と云い、明道何ぞ乃《すなわ》ち自ら苦《くるし》むこと此《かく》の如くなるや、と云い、伊川《いせん》の言《げん》を評しては、此《これ》は是れ伊川《いせん》みずから此《この》説を造って禅学者を誣《し》う、伊川が良心いずくにか在《あ》る、と云い、管《かん》を以て天を窺《うかが》うが如しとは夫子《ふうし》みずから道《い》うなりと云い、程夫子《ていふうし》崛強《くっきょう》自任《じにん》す、聖人の道を伝うる者、是《かく》の如くなる可からざる也、と云い、晦庵《かいあん》の言を難《なん》しては、朱子の※[#「寐」の「未」に代えて「自/木」、第4水準2−8−10]語《げいご》、と云い、惟《ただ》私意を逞《たくま》しくして以て仏を詆《そし》る、と云い、朱子も亦《また》怪なり、と云い、晦庵|此《かく》の如くに心を用いば、市井《しせい》の間の小人の争いて販売する者の所為《しょい》と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄《ぐろう》嘲笑《ちょうしょう》すること太《はなは》だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋《けだ》し其《その》姉の納《い》れず、其《その》友の見ざるに至れる所以《ゆえん》ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大※[#「既/木」、第3水準1−86−3]《たいがい》禅宗《ぜんしゅう》に依り、楞伽《りょうが》、楞厳《りょうごん》、円覚《えんがく》、法華《ほっけ》、華厳《けごん》等の経に拠って、程朱《ていしゅ》の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然《しか》れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於《おい》て、抗争反撃の弁を逞《たくま》しくす。書の公《おおやけ》にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰《い》うと雖も、亦|争《あらそい》を好むというべし。此《こ》も亦道衍が※[#「くさかんむり/奔」、UCS−83BE、363−12]々蕩々《もうもうとうとう》の気の、已《や》む能わずして然るもの耶《か》、非《ひ》耶《か》。
道衍は是《かく》の如きの人なり、而して猶《なお》卓侍郎《たくじろう》を容《い》るゝ能わず、之《これ》を赦《ゆる》さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素《もと》より相《あい》善《よ》からざるの私《わたくし》ありしに因《よ》るとは云え、又実に卓の才の大にして器《き》の偉なるを忌《い》みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭《たくいきょう》もまた雄傑の士というべし。
道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮《か》りて之を評すれば、道衍|量《りょう》何ぞ隘《せま》きやと云う可きなり。然《しか》るに道衍の方正学《ほうせいがく》に対するは則《すなわ》ち大《おおい》に異なり。方正学の燕王に於《お》けるは、実に相《あい》容《い》れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃《はら》わんとするを名として、其の目《もく》して以て事を構え親《しん》を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方《せいこうれんほう》の四人なりき。斉は斉泰《せいたい》なり、黄は黄子澄《こうしちょう》なり、練は練子寧《れんしねい》なり、而《しか》して方は即ち方正学《ほうせいがく》なり。燕王にして功の成るや、もとより此《この》四人を得て甘心《かんしん》せんとす。道衍は王の心腹《しんぷく》なり、初《はじめ》よりこれを知らざるにあらず。然《しか》るに燕王の北平《ほくへい》を発するに当り、道衍これを郊《こう》に送り、跪《ひざまず》いて密《ひそか》に啓《もう》して曰《いわ》く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺《ほうこうじゅ》あり、学行《がくこう》あるを以《もっ》て聞《きこ》ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降《くだ》らざらんも、幸《さいわい》に之を殺したもう勿《なか》れ、之を殺したまわば則《すなわ》ち天下の読書の種子《しゅし》絶えんと。燕王これを首肯《しゅこう》す。道衍の卓敬に於《お》ける、私情の憎嫉《ぞうしつ》ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂《そうれん》の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋《けだ》し文字の交あり。道衍の少《わか》きや、学を好み詩を工《たくみ》にして、濂の推奨するところとなる。道衍|豈《あに》孝孺が濂の愛重《あいちょう》するところの弟子《ていし》たるを以て深く知るところありて庇護《ひご》するか、或《あるい》は又孝孺の文章学術、一世の仰慕《げいぼ》するところたるを以て、之《これ》を殺すは燕王の盛徳を傷《やぶ》り、天下の批議を惹《ひ》く所以《ゆえん》なるを慮《はか》りて憚《はばか》るか、将《はた》又真に天下読書の種子の絶えんことを懼《おそ》るゝか、抑《そもそも》亦孝孺の厳※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《げんれい》の操履《そうり》、燕王の剛邁《ごうまい》の気象、二者|相《あい》遇《あ》わば、氷塊の鉄塊と相《あい》撃《う》ち、鷲王《しゅうおう》と龍王《りゅうおう》との相《あい》闘《たたか》うが如き凄惨狠毒《せいさんこんどく》の光景を生ぜんことを想察して預《あらかじ》め之を防遏《ぼうあつ》せんとせるか、今皆確知する能《あた》わざるなり。
方孝孺は如何《いか》なる人ぞや。孝孺|字《あざな》は希直《きちょく》、一字は希古《きこ》、寧海《ねいかい》の人。父|克勤《こくきん》は済寧《せいねい》の知府《ちふ》たり。治を為すに徳を本《もと》とし、心を苦《くるし》めて民の為《ため》にす。田野《でんや》を闢《ひら》き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚《とんこう》人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今|耕耘《こううん》暇《いとま》あらず、何ぞ又|畚※[#「金+插のつくり」、第3水準1−93−28]《ほんそう》に堪えんと。中書省《ちゅしょしょう》に請いて役《えき》を罷《や》むるを得たり。是より先《さ》き久しく旱《ひでり》せしが、役の罷むに及んで甘雨《かんう》大《おおい》に至りしかば、済寧の民歌って曰く。
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孰《たれ》か我が役を罷《や》めしぞ、
使君《しくん》の 力なり。
孰《たれ》か我が黍《しょ》を活《い》かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ勿《なか》れ、
我が民の 父なり 母なり。
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克勤の民意を得《う》る是《かく》の如くなりしかば、事を視《み》ること三年にして、戸口増倍し、一郡|饒足《じょうそく》し、男女|怡々《いい》として生を楽《たのし》みしという。克勤|愚菴《ぐあん》と号す。宋濂《そうれん》に故《こ》愚庵先生|方公墓銘文《ほうこうぼめいぶん》あり。滔々《とうとう》数千言《すせんげん》、備《つぶさ》に其の人となりを尽す。中《うち》に記す、晩年|益《ますます》畏慎《いしん》を加え、昼の為《な》す所の事、夜は則《すなわ》ち天に白《もう》すと。愚庵はたゞに循吏《じゅんり》たるのみならざるなり。濂又曰く、古《いにしえ》に謂《い》わゆる体道《たいどう》成徳《せいとく》の人、先生誠に庶幾焉《ちかし》と。蓋《けだ》し濂が諛墓《ゆぼ》の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦《てんぷ》も厚く、庭訓《ていきん》も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸《そうぼう》烱々《けいけい》として、日に書を読むこと寸に盈《み》ち、文を為《な》すに雄邁醇深《ゆうまいじゅんしん》なりしかば、郷人呼んで小韓子《しょうかんし》となせりという。其の聰慧《そうけい》なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉《ことごと》く称して太史公《たいしこう》となして、姓氏を以てせず。濂|字《あざな》は、景濂《けいれん》、其《その》先《せん》金華《きんか》の潜渓《せんけい》の人なるを以て潜渓《せんけい》と号《ごう》す。太祖|濂《れん》を廷《てい》に誉《ほ》めて曰く、宋景濂|朕《ちん》に事《つか》うること十九年、未《いま》だ嘗《かつ》て一|言《げん》の偽《いつわり》あらず、一人《いちにん》の短《たん》を誚《そし》らず、始終|二《に》無し、たゞに君子のみならず、抑《そもそも》賢と謂《い》う可しと。太祖の濂を視《み》ること是《かく》の如し。濂の人品|想《おも》う可き也《なり》。孝孺|洪武《こうぶ》の九年を以て、濂に見《まみ》えて弟子《ていし》となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大《おおい》に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還《かえ》るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生|希直《きちょく》を得たり、其の人となりや凝重《ぎょうちょう》にして物に遷《うつ》らず、穎鋭《えいえい》にして以て諸《これ》を理に燭《しょく》す、間《まま》発《はっ》[#「間《まま》発《はっ》」は底本では「発《まま》間《はっ》」]して文を為《な》す、水の湧《わ》いて山の出《い》づるが如し、喧啾《けんしゅう》たる百鳥の中《うち》、此の孤鳳皇《こほうおう》を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重《ぎょうちょう》穎鋭《えいえい》の二句、老先生|眼裏《がんり》の好学生を写し出《いだ》し来《きた》って神《しん》有り。此の孤鳳皇《こほうおう》を見るというに至っては、推重《すいちょう》も亦《また》至れり。詩十四章、其二に曰く、
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念《おも》ふ 子《し》が 初めて来りし時、
才思 繭糸《けんし》の若《ごと》し。
之を抽《ひ》いて 已《すで》に緒《いとぐち》を見る、
染めて就《な》せ 五色《ごしき》の衣《い》。
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其九に曰く、
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須《すべか》らく知るべし 九仭《きゅうじん》の山も、
功 或《あるい》は 一|簣《き》に少《か》くるを。
学は 貴ぶ 日に随《したが》つて新《あらた》なるを、
慎んで 中道に廃する勿《なか》れ。
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其十に曰く、
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羣経《ぐんけい》 明訓《めいくん》 耿《こう》たり、
白日 青天に麗《かか》る。
苟《いやしく》も徒《ただ》に 文辞に溺《おぼ》れなば、
蛍※[#「火+爵」、UCS−721D、370−6]《けいしゃく》 妍《けん》を争はんと欲するなり。
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其十一に曰く、
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姫《き》も 孔《こう》も 亦|何人《なんぴと》ぞや、
顔面 了《つい》に異《こと》ならじ。
肯《あえ》て 盆※[#「央/皿」、第3水準1−88−73]《ぼんおう》の中《うち》に墮《だ》せんや、
当《まさ》に 瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]《これん》の器《き》となるべし。
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其終章に曰く、
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明年 二三月、
羅山《らざん》 花 正《まさ》に開かん。
高きに登りて 日に盻望《べんぼう》し、
子《し》が能《よ》く 重ねて来《きた》るを遅《ま》たむ。
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其《その》才を称《しょう》し、其学を勧め、其《そ》の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮《ふる》って聖賢の域に至らんことを求め、他日|復《また》再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓《せんけい》が孝孺に対する、称許《しょうきょ》も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼《ああ》、老先生、孰《たれ》か好学生を愛せざらん、好学生、孰《たれ》か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年|丁巳《ていし》、経《けい》を執って浦陽《ほよう》に潜渓に就《つ》きぬ。従学四年、業|大《おおい》に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下《しも》に出で、先輩|胡翰《こかん》も蘇伯衡《そはくこう》も亦《また》自《みずか》ら如《し》かずと謂《い》うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之《これ》を送る五十四|韻《いん》の長詩あり。其《その》引《いん》の中《うち》に記して曰く、細《つまび》らかに其の進修の功を占《と》うに、日々に異《こと》なるありて、月々に
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