辱[#二]詩見[#一レ]貽《こうけいをしょうざんぐうしゃにといしをおくらるるをかたじけなくす》、|雪夜読[#二]高啓詩[#一]《せつやこうけいのしをよむ》等の詩に徴して知るべく、此《この》老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集《とうきょしゅう》十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖《いえど》も、時に逸気あり。今其集に就《つい》て交友を考うるに、袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《えんこう》[#「袁※[#「王+共」、第3水準1−87−92]」は底本では「韋※[#「王+共」、第3水準1−87−92]」]と張天師《ちょうてんし》とは、最も親熟《しんじゅく》するところなるが如く、贈遺《ぞうい》の什《じゅう》甚《はなは》だ少《すくな》からず。※[#「王+共」、第3水準1−87−92]《こう》と道衍とは本《もと》より互《たがい》に知己たり。道衍又|嘗《かつ》て道士|席応真《せきおうしん》を師として陰陽術数《いんようじゅっすう》の学を受く。因《よ》って道家の旨《し》を知り、仙趣の微に通ず。詩集|巻七《まきのしち》に、|挽[#二]席道士[#一]《せきどうしをべんす》とあるもの、疑うらくは応真、若《も》[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族を悼《いた》めるならん。張天師は道家の棟梁《とうりょう》たり、道衍の張を重んぜるも怪《あやし》むに足る無きなり。故友に於ては最も王達善《おうたつぜん》を親《したし》む。故に其の|寄[#二]王助教達善[#一]《おうじょきょうたつぜんによす》の長詩の前半、自己の感慨|行蔵《こうぞう》を叙《じょ》して忌《い》まず、道衍自伝として看《み》る可し。詩に曰く、
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乾坤《けんこん》 果して何物ぞ、
開闔《かいこう》 古《いにしえ》より有り。
世を挙《こぞ》って 孰《たれ》か客《かく》に非《あら》ざらん、
離会 豈《あに》偶《たまたま》なりと云《い》はんや。
嗟《ああ》予《われ》 蓬蒿《ほうこう》の人、
鄙猥《ひわい》 林籔《りんそう》に匿《かく》る。
自《みず》から慚《は》づ 駑蹇《どけん》の姿、
寧《なん》ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山《ござん》 窈《ふか》くして而《しこう》して深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
且《かつ》 木石と共に居《お》りて、
氷檗《ひょうばく》と 志《こころざし》 堅く守りぬ。
人は云ふ 鳳《ほう》 枳《からたち》に栖《す》むと、
豈《あに》同じからんや 魚の※[#「网/卯」、354−11]《やな》に在《あ》るに。
藜※[#「くさかんむり/霍」、第3水準1−91−37]《れいかく》 我《わが》腸《はらわた》を充《みた》し、
衣《い》蔽《やぶ》れて 両肘《りょうちゅう》露《あら》はる。
※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]龍《きりゅう》 高位に在り、
誰《たれ》か来《きた》りて 可否を問はん。
盤旋《ばんせん》す 草※[#「くさかんむり/奔」、UCS−83BE、356−4]《そうもう》の間《あいだ》に、
樵牧《しょうぼく》 日に相《あい》叩《たた》く。
嘯詠《しょうえい》 寒山《かんざん》に擬し、
惟《ただ》 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹《とまつ》して、
乞《こい》媚《こ》びて 里婦《さとのおんな》に効《なら》ふに。
山霊 蔵《かく》るゝことを容《ゆる》さず、
辟歴《はたたがみ》 岡阜《こうふ》を破りぬ。
門を出《い》でゝ 天日を睹《み》る、
行也《こうや》 焉《いずく》にぞ 肯《あえ》て苟《いやしく》もせん。
一挙して 即ち北に上《のぼ》れば、
親藩 待つこと惟《これ》久しかりき。
天地 忽《たちま》ち 大変して、
神龍 氷湫《ひょうしゅう》より起る。
万方 共に忻《よろこ》び躍《おど》りて、
率土《そっと》 元后《げんこう》を戴《いただ》く。
吾《われ》を召して 南京《なんけい》に来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時 天眷《てんけん》を荷《にな》ふ、
愛に因《よ》って 醜《しゅう》を知らず。(下略)
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嘯詠寒山《しょうえいかんざん》に擬すの句は、此《この》老《ろう》の行為に照《てら》せば、矯飾《きょうしょく》の言に近きを覚ゆれども、若《もし》夫《そ》れ知己に遇《あ》わずんば、強項《きょうこう》の人、或《あるい》は呉山《ござん》に老朽を甘《あま》んじて、一生|世外《せいがい》の衲子《とっし》たりしも、また知るべからず、未《いま》だ遽《にわか》に虚高《きょこう》の辞を為《な》すものと断ず可《べ》からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦《しょうえいぎんが》、或《あるい》は獅子《しし》の繍毬《しゅうきゅう》を弄《ろう》して日を消するが如《ごと》くに、其《その》身を終ることは之《これ》有るべし、寒山子《かんざんし》の如くに、蕭散閑曠《しょうさんかんこう》、塵表《じんぴょう》に逍遙《しょうよう》して、其身を遺《わす》るゝを得《う》可きや否《あらず》や、疑う可き也。※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]龍《きりゅう》高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容《ゆる》さず以下数句、燕王《えんおう》に召出《めしいだ》されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王|崛起《くっき》の事をいう。道《い》い得て佳《か》なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身《わがみ》を世に徇《とな》うるを言えるもの、亦《また》善《よ》く標置《ひょうち》すというべし。
道衍《どうえん》の一生を考うるに、其《そ》の燕《えん》を幇《たす》けて簒《さん》を成さしめし所以《ゆえん》のもの、栄名厚利の為《ため》にあらざるが如《ごと》し。而《しか》も名利《めいり》の為にせずんば、何を苦《くるし》んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴《いただ》かしめしぞ。道衍と建文帝《けんぶんてい》と、深仇《しんきゅう》宿怨《しゅくえん》あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可《べ》からざるある也《なり》。道衍|己《おのれ》の偉功によって以《もっ》て仏道の為にすと云《い》わんか、仏道|明朝《みんちょう》の為に圧逼《あっぱく》せらるゝありしに非《あらざ》る也。燕王|覬覦《きゆ》の情《じょう》無き能《あた》わざりしと雖《いえど》も、道衍の扇《せん》を鼓《こ》して火を煽《あお》るにあらざれば、燕王|未《いま》だ必ずしも毒烟《どくえん》猛[※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《もうえん》を揚げざるなり。道衍|抑《そも》又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚《りょしょう》、范増《はんぞう》、皆老いて而《しこう》して後立つと雖《いえど》も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教《おしえ》を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼《ああ》又解すべからずというべし。若《も》し強《し》いて道衍の為に解さば、惟《ただ》是《こ》れ道衍が天に禀《う》くるの気と、自ら負《たの》むの材と、※[#「くさかんむり/奔」、UCS−83BE、363−12]々《もうもう》、蕩々《とうとう》、糾々《きゅうきゅう》、昂々《こうこう》として、屈す可《べ》からず、撓《たわ》む可からず、消《しょう》す可からず、抑《おさ》う可からざる者、燕王に遇《あ》うに当って、※[#「(ぼう+彡)/石」、第4水準2−82−32]然《かくぜん》として破裂し、爆然として迸発《へいはつ》せるものというべき耶《か》、非《ひ》耶《か》。予|其《そ》の逃虚子集《とうきょししゅう》を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟《あと》に感慨するもの多くして、仏灯《ぶっとう》梵鐘《ぼんしょう》の間に幽潜するの情の少《すくな》きを思わずんばあらざるなり。
道衍の人となりの古怪なる、実に一|沙門《しゃもん》を以て目す可からずと雖も、而《しか》も文を好み道の為にするの情も、亦《また》偽《ぎ》なりとなす可からず。此《この》故《ゆえ》に太祖《たいそ》[#「太祖」は底本では「大祖」]実録《じつろく》を重修《ちょうしゅう》するや、衍《えん》実に其《その》監修を為《な》し、又|支那《しな》ありてより以来の大編纂《だいへんさん》たる永楽大典《えいらくだいてん》の成れるも、衍実に解縉《かいしん》等《ら》と与《とも》に之《これ》を為《な》せるにて、是《こ》れ皆文を好むの余《よ》に出で、道余録《どうよろく》を著し、浄土簡要録《じょうどかんようろく》を著し、諸上善人詠《しょじょうぜんじんえい》を著せるは、是れ皆道の為にせるに出《い》づ。史に記す。道衍|晩《ばん》に道余録を著し、頗《すこぶ》る先儒を毀《そし》る、識者これを鄙《いや》しむ。其《そ》の故郷の長州《ちょうしゅう》に至るや、同産の姉を候《こう》す、姉|納《い》れず。其《その》友|王賓《おうひん》を訪《と》う、賓も亦《また》見《まみ》えず、但《ただ》遙《はるか》に語って曰く、和尚《おしょう》誤れり、和尚誤れりと。復《また》往《ゆ》いて姉を見る、姉これを詈《ののし》る。道衍|惘然《ぼうぜん》たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏《ぶつ》を斥《しりぞ》くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝《でん》無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善《おうたつぜん》ならんか。声を揚げて遙語《ようご》す、鄙《いや》しむも亦|甚《はなはだ》し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之《これ》を悪《にく》むも、亦《また》過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余|曩《さき》に僧たりし時、元季《げんき》の兵乱に値《あ》う。年三十に近くして、愚庵《ぐあん》の及《きゅう》和尚に径山《けいざん》に従って禅学を習う。暇《いとま》あれば内外の典籍を披閲《ひえつ》して以《もっ》て才識に資す。因って河南《かなん》の二程先生《にていせんせい》の遺書と新安《しんあん》の晦庵朱先生《かいあんしゅせんせい》の語録を観《み》る。(中略)三先生既に斯文《しぶん》の宗主《そうしゅ》、後学の師範たり、仏老《ぶつろう》を※[#「てへん+(嚢−口二つ)」、361−8]斥《じょうせき》すというと雖も、必ず当《まさ》に理に拠《よ》って至公無私なるべし、即《すなわ》ち人心服せん。三先生多く仏書を探《さぐ》らざるに因って仏《ぶつ》の底蘊《ていおん》を知らず。一に私意を以て邪※[#「言+皮」、UCS−8A56、361−10]《じゃひ》の辞《ことば》を出して、枉抑《おうよく》太《はなは》だ過ぎたり、世の人も心|亦《また》多く平らかならず、況《いわ》んや其《その》学を宗《そう》する者をやと。(下略)道余録は乃《すなわ》ち程氏《ていし》遺書《いしょ》の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目《もく》して、極めて謬誕《びょうたん》なりと為《な》し、条を逐《お》い理に拠って一々|剖柝《ぼうせき》せるものなり。藁《こう》成って巾笥《きんし》に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵《たいてい》禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋《けだ》し明道《めいどう》、伊川《いせん》、晦庵《かいあん》の仏《ぶつ》を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如《ごと》き、本《もと》是《これ》弁じ易《やす》きの事たり。膽《たん》を張り目を怒らし、手を戟《ほこ》にし気を壮《さかん》にするを要せず。道衍の峻機《しゅんき》険鋒《けんぼう》を以て、徐《しずか》に幾百年前の故紙《こし》に対す、縦説横説、甚《はなは》だ是《こ》れ容易なり。是れ其の観《み》る可き無き所以《ゆえん》なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道《めいどう》の言を罵《ののし》って、豈《あに》道学の君子の為《わざ》ならんやと云《い》い、明道の執見《しっけん》僻説《へきせつ》、委巷《いこう》の曲士の若《ごと》し、誠に
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