て曰く、※[#「さんずい+肥」、第3水準1−86−85]河《ひか》の戦《たたかい》、公の馬|躓《つまず》かずんば、何以《いか》に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽《くちき》を拉《とりひし》ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好《よ》く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善《よ》く之を視《み》せしむ。安|後《のち》永楽七年に至りて自殺す。安等を喪《うしな》いてより、南軍|大《おおい》に衰う。黄子澄《こうしちょう》、霊壁《れいへき》の敗を聞き、胸を撫《ぶ》して大慟《たいどう》して曰く、大事去る、吾輩《わがはい》万死、国を誤るの罪を贖《つぐな》うに足らずと。
 五月、燕兵|泗州《ししゅう》に至る。守将|周景初《しゅうけいしょ》降《くだ》る。燕の師進んで淮《わい》に至る。盛庸《せいよう》防ぐ能《あた》わず、戦艦皆燕の獲《う》るところとなり、※[#「目+干」、第3水準1−88−76]※[#「目+台」、第3水準1−88−79]《くい》陥《おとしい》れらる。燕王諸将の策を排して、直《ただち》に揚州《ようしゅう》に趨《おもむ》く。揚州の守将|王礼《おうれい》と弟|宗《そう》と、監察御史《かんさつぎょし》王彬《おうひん》を縛して門を開いて降《くだ》る。高郵《こうゆう》、通泰《つうたい》、儀真《ぎしん》の諸城、亦《また》皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓《きこ》天を蔽《おお》うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為《な》して、復《また》立って争わんとする者無し。方孝孺《ほうこうじゅ》、地を割《さ》きて燕に与え、敵の師を緩《ゆる》うして、東南の募兵の至るを俟《ま》たんとす。乃《すなわ》ち慶城《けいじょう》郡主《ぐんしゅ》を遣《や》りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉《じゅうし》なり。燕王|聴《き》かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾《わが》地《ち》も且《かつ》保つ能《あた》わざらんとせり、何ぞ更に地を割《さ》くを望まん、たゞ奸臣《かんしん》を得るの後、孝陵《こうりょう》に謁《えっ》せんと。六月、燕師|浦子口《ほしこう》に至る。盛庸等之を破る。帝|都督《ととく》僉事《せんじ》陳※[#「王+宣」、第3水準1−88−14]《ちんせん》を遣りて舟師《しゅうし》を率いて庸を援《たす》けしむるに、※[#「王+宣」、第3水準1−88−14]却《かえ》って燕に降《くだ》り、舟を具《そな》えて迎う。燕王乃ち江神《こうじん》を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫《じくろ》相《あい》銜《ふく》みて、金鼓《きんこ》大《おおい》に震《ふる》う。盛庸等|海舟《かいしゅう》に兵を列せるも、皆|大《おおい》に驚き愕《おどろ》く。燕王諸将を麾《さしまね》き、鼓譟《こそう》して先登《せんとう》す。庸の師|潰《つい》え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江《ちんこう》の守将|童俊《どうしゅん》、為《な》す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為《な》し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱《ゆううつ》して計《はかりごと》を方孝孺に問う。孝孺民を駆《か》りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆《りけいりゅう》等《ら》燕王に見《まみ》えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢《いきおい》いよ/\逼《せま》る。群臣|或《あるい》は帝に勧むるに淅《せつ》に幸《こう》するを以てするあり、或《あるい》は湖湘《こしょう》に幸するに若《し》かずとするあり。方孝孺堅く京《けい》を守りて勤王《きんのう》の師の来《きた》り援《たす》くるを待ち、事|若《も》し急ならば、車駕《しゃが》蜀《しょく》に幸《みゆき》して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰《せいたい》は広徳《こうとく》に奔《はし》り、黄子澄は蘇州《そしゅう》に奔り、徴兵を促《うなが》す。蓋《けだ》し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴《め》さんとして果《はた》さず。燕将|劉保《りゅうほ》、華聚《かしゅう》等《ら》、終《つい》に朝陽門《ちょうようもん》に至り、備《そなえ》無きを覘《うかが》いて還りて報ず。燕王|大《おおい》に喜び、兵を整えて進む。金川門《きんせんもん》に至る。谷王《こくおう》※[#「木+惠」、UCS−6A5E、337−8]《けい》と李景隆《りけいりゅう》と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂《つい》に門を開いて降る。魏国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》屈せず、師を率いて迎え戦う。克《か》つ能《あた》わず。朝廷文武皆|倶《とも》に降って燕王を迎う。


 史を按《あん》じて兵馬の事を記す、筆墨も亦《また》倦《う》みたり。燕王《えんおう》事を挙げてより四年、遂《つい》に其《その》志を得たり。天意か、人望か、数《すう》か、勢《いきおい》か、将又《はたまた》理の応《まさ》に然《しか》るべきものあるか。鄒公《すうこう》瑾《きん》等《ら》十八人、殿前に於《おい》て李景隆《りけいりゅう》を殴《う》って幾《ほとん》ど死せしむるに至りしも、亦《また》益無きのみ。帝、金川門《きんせんもん》の守《まもり》を失いしを知りて、天を仰いで長吁《ちょうく》し、東西に走り迷《まど》いて、自殺せんとしたもう。明史《みんし》、恭閔恵《きょうびんけい》皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后|馬氏《ばし》は火に赴いて死したもう。丙寅《へいいん》、諸王及び文武の臣、燕王に位に即《つ》かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王|羣臣《ぐんしん》、頓首《とんしゅ》して固く請う。王|遂《つい》に奉天殿《ほうてんでん》に詣《いた》りて、皇帝の位に即く。
 是《これ》より先|建文《けんぶん》中、道士ありて、途《みち》に歌って曰《いわ》く、

[#ここから2字下げ]
燕《えん》を逐《お》ふ莫《なか》れ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿《ていき》に上《のぼ》らん。
[#ここで字下げ終わり]

 是《ここ》に至りて人|其《その》言の応を知りぬ。燕王今は帝《てい》たり、宮人|内侍《ないじ》を詰《なじ》りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆|馬《ば》皇后の死したまえるところを指して応《こた》う。乃《すなわ》ち屍《かばね》を※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]燼中《かいじんちゅう》より出して、之《これ》を哭《こく》し、翰林侍読《かんりんじどく》王景《おうけい》を召して、葬礼まさに如何《いかん》すべき、と問いたもう。景|対《こた》えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
 建文帝の皇考《おんちち》興宗孝康《こうそうこうこう》皇帝の廟号《びょうごう》を去り、旧《もと》の諡《おくりな》に仍《よ》りて、懿文《いぶん》皇太子と号し、建文帝の弟|呉王《ごおう》允※[#「火+通」、UCS−71A5、339−9]《いんとう》を降《くだ》して広沢王《こうたくおう》とし、衛王《えいおう》允※[#「火+堅」、UCS−719E、339−9]《いんけん》を懐恩王《かいおんおう》となし、除王《じょおう》允※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1−87−58]《いんき》を敷恵王《ふけいおう》となし、尋《つい》で復《また》庶人《しょじん》と為《な》ししが、諸王|後《のち》皆|其《その》死《し》を得ず。建文帝の少子《しょうし》は中都《ちゅうと》広安宮《こうあんきゅう》に幽せられしが、後《のち》終るところを知らず。


 魏国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖|始終《しじゅう》帝を戴《いただ》くの意無し。帝|大《おおい》に怒れども、元勲|国舅《こくきゅう》たるを以て誅《ちゅう》する能《あた》わず、爵を削って之を私第《してい》に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王《ちゅうさんおう》徐達《じょたつ》の子にして、雄毅《ゆうき》誠実、父|達《たつ》の風骨あり。斉眉山《せいびざん》の戦《たたかい》、大《おおい》に燕兵を破り、前後数戦、毎《つね》に良将の名を辱《はずかし》めず。其《その》姉は即《すなわ》ち燕王の妃《ひ》にして、其弟|増寿《ぞうじゅ》は京師《けいし》に在りて常に燕の為《ため》に国情を輸《いた》せるも、輝祖独り毅然《きぜん》として正しきに拠《よ》る。端厳の性格、敬虔《けいけん》の行為、良将とのみ云《い》わんや、有道の君子というべきなり。
 兵部尚書《へいぶしょうしょ》鉄鉉《てつげん》、執《とら》えられて京《けい》に至る。廷中に背立して、帝に対《むか》わず、正言して屈せず、遂に寸磔《すんたく》せらる。死に至りて猶《なお》罵《ののし》るを以《もっ》て、大※[#「金+護のつくり」、第3水準1−93−41]《たいかく》に油熬《ゆうごう》せらるゝに至る。参軍断事《さんぐんだんじ》高巍《こうぎ》、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願《ねがい》なりと。京城《けいじょう》破れて、駅舎に縊死《いし》す。礼部尚書《れいぶしょうしょ》陳廸《ちんてき》、刑部《けいぶ》尚書|暴昭《ぼうしょう》、礼部侍郎《れいぶじろう》黄観《こうかん》、蘇州《そしゅう》知府《ちふ》姚善《ようぜん》、翰林《かんりん》修譚《しゅうたん》、王叔英《おうしゅくえい》、翰林《かんりん》王艮《おうごん》、淅江《せっこう》按察使《あんさつし》王良《おうりょう》、兵部郎中《へいぶろうちゅう》譚冀《たんき》、御史《ぎょし》曾鳳韶《そうほうしょう》、谷府長史《こくふちょうし》劉※[#「王+景」、第3水準1−88−27]《りゅうけい》、其他数十百人、或《あるい》は屈せずして殺され、或は自死《じし》して義を全くす。斉泰《せいたい》、黄子澄《こうしちょう》、皆|執《とら》えられ、屈せずして死す。右副都御史《ゆうふくとぎょし》練子寧《れんしねい》、縛《ばく》されて闕《けつ》に至る。語|不遜《ふそん》なり。帝|大《おおい》に怒って、命じて其《その》舌を断《き》らしめ、曰く、吾《われ》周公《しゅうこう》の成王《せいおう》を輔《たす》くるに傚《なら》わんと欲するのみと。子寧《しねい》手をもて舌血《ぜっけつ》を探り、地上に、成王《せいおう》安在《いずくにある》の四字を大書《たいしょ》す。帝|益《ますます》怒りて之を磔殺《たくさつ》し、宗族《そうぞく》棄市《きし》せらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史《させんとぎょし》景清《けいせい》、詭《いつわ》りて帰附し、恒《つね》に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清|緋衣《ひい》して入る。是《これ》より先に霊台《れいだい》奏す、文曲星《ぶんきょくせい》帝座を犯す急にして色赤しと。是《ここ》に於《おい》て清の独り緋を衣《き》るを見て之を疑う。朝《ちょう》畢《おわ》る。清《せい》奮躍して駕《が》を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清《せい》志の遂《と》ぐべからざるを知り、植立《しょくりつ》して大に罵《ののし》る。衆|其《その》歯を抉《けっ》す。且《かつ》抉せられて且《かつ》罵り、血を含んで直《ただち》に御袍《ぎょほう》に※[#「口+饌のつくり」、第4水準2−4−37]《ふ》く。乃《すなわ》ち命じて其《その》皮を剥《は》ぎ、長安門《ちょうあんもん》に繋《つな》ぎ、骨肉を砕磔《さいたく》す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞《めぐ》る。帝|覚《さ》めて、清の族を赤《せき》し郷《きょう》を籍《せき》す。村里も墟《きょ》となるに至る。
 戸部侍郎《こぶじろう》卓敬《たくけい》執《とら》えらる。帝曰く、爾《なんじ》前日諸王を裁抑《さいよく》す、今|復《また》我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝|若《も》し敬が言に依《よ》りたまわば、殿下|豈《あに》此《ここ》に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而《しか》も其《その》才を憐《あわれ》みて獄に繋《つな》ぎ、諷《ふう》するに管仲《かんちゅう》・魏徴《ぎちょう》の事を以《もっ》てす。帝の意《こころ》、敬を用いんとする也《なり》。敬たゞ涕泣《ていきゅう》して可《き》かず。帝|猶《なお》殺すに忍び
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