書を遣《おく》り、香《こう》を金陵《きんりょう》に進むるを以て辞と為《な》す。殷答えて曰く、進香は皇考《こうこう》禁あり、遵《したが》う者は孝たり、遵《したが》わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻《じび》を割《さ》き、峻厳《しゅんげん》の語をもて斥《しりぞ》く。燕王怒ること甚《はなはだ》し。
燕王兵を起してより既に三年、戦《たたかい》勝つと雖《いえど》も、得るところは永平《えいへい》・大寧《たいねい》・保定《ほてい》にして、南軍出没して已《や》まず、得るもまた棄《す》つるに至ること多く、死傷|少《すくな》からず。燕王こゝに於《おい》て、太息《たいそく》して曰く、頻年《ひんねん》兵を用い、何の時か已《や》む可《べ》けん、まさに江に臨みて一決し、復《また》返顧せざらんと。時に京師《けいし》の内臣等、帝の厳《げん》なるを怨《うら》みて、燕王を戴《いただ》くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間《かん》に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
四年正月、燕の先鋒《せんぽう》李遠、徳州《とくしゅう》の裨将《ひしょう》葛進《かっしん》を※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2−79−10]沱河《こだか》に破り、朱能《しゅのう》もまた平安の将|賈栄《かえい》等《ら》を衡水《こうすい》に破りて之《これ》を擒《とりこ》にす。燕王乃ち館陶《かんとう》より渡りて、東阿《とうあ》を攻め、※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]上《ぶんじょう》を攻め、沛県《はいけん》を攻めて之を略し、遂に徐州《じょしゅう》に進み、城兵を威《おど》して敢《あえ》て出でざらしめて南行し、三月|宿州《しゅくしゅう》に至り、平安が馬歩兵《ばほへい》四万を率いて追躡《ついせつ》せるを※[#「さんずい+肥」、第3水準1−86−85]河《ひが》に破り、平安の麾下《きか》の番将|火耳灰《ホルフイ》を得たり。此《この》戦《たたかい》や火耳灰《ホルフイ》※[#「矛+肖」、第4水準2−82−20]《ほこ》を執《と》って燕王に逼《せま》る、相《あい》距《さ》るたゞ十歩ばかり、童信《どうしん》射って、其《その》馬に中《あ》つ。馬倒れて王|免《のが》れ、火耳灰《ホルフイ》獲《え》らる。王|即便《すなわち》火耳灰《ホルフイ》を釈《ゆる》し、当夜に入って宿衛《しゅくえい》せしむ。諸将これを危《あやぶ》みて言《ものい》えども、王|聴《き》かず。次《つ》いで蕭県《しょうけん》を略し、淮河《わいか》の守兵を破る。四月平安|小河《しょうか》に営し、燕兵|河北《かほく》に拠《よ》る。総兵《そうへい》何福《かふく》奮撃して、燕将|陳文《ちんぶん》を斬《き》り、平安勇戦して燕将|王真《おうしん》を囲む。真《しん》身に十余|創《そう》を被《こうむ》り、自ら馬上に刎《くびは》ぬ。安《あん》いよいよ逼《せま》りて、燕王に北坂《ほくはん》に遇《あ》う。安の槊《ほこ》ほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮《ばんきしき》王騏《おうき》、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将|張武《ちょうぶ》悪戦して敵を却《しりぞ》くと雖《いえど》も、燕軍遂に克《か》たず。是《ここ》に於て南軍は橋南《きょうなん》に駐《とど》まり、北軍は橋北に駐まり、相《あい》持《じ》するもの数日、南軍|糧《かて》尽きて、蕪《ぶ》を採って食う。燕王曰く、南軍|飢《う》えたり、更に一二日にして糧《かて》やゝ集まらば破り易からずと。乃《すなわ》ち兵千余を留《とど》めて橋を守らしめ、潜《ひそか》に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞《めぐ》って敵の後《うしろ》に出づ。時に徐輝祖《じょきそ》の軍至る。甲戌《こうじゅつ》大《おおい》に斉眉山《せいびざん》に戦う。午《うま》より酉《とり》に至りて、勝負《しょうはい》相《あい》当《あた》り、燕の驍将《ぎょうしょう》李斌《りひん》死す。燕|復《また》遂に克《か》つ能《あた》わず。南軍|再捷《さいしょう》して振《ふる》い、燕は陳文《ちんぶん》、王真《おうしん》、韓貴《かんき》、李斌等を失い、諸将皆|懼《おそ》る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土《わいど》湿蒸に、疾疫《しつえき》漸《ようや》く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二|麦《ばく》まさに熟せんとす。河を渡り地を択《えら》み、士馬を休息せしめ、隙《げき》を観《み》て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進《しん》ありて退《たい》無し。勝形成りて而して復《また》北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣《こうれん》するのみと。乃《すなわ》ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨《はし》る。王|大《おおい》に怒って曰く、公等みずから之を為《な》せと。此《この》時《とき》や燕の軍の勢《いきおい》、実に岌々乎《きゅうきゅうこ》として将《まさ》に崩れんとするの危《き》に居《お》れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠《りょうえん》にして、而《しか》も本拠の四囲|亦《また》皆敵たる也。燕の軍戦って克《か》てば則《すなわ》ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而《しこう》して当面の敵たる何福《かふく》は兵多くして力戦し、徐輝祖《じょきそ》は堅実にして隙《ひま》無く、平安《へいあん》は驍勇《ぎょうゆう》にして奇を出《いだ》す。我軍《わがぐん》は再戦して再挫《さいざ》し、猛将多く亡びて、衆心|疑懼《ぎく》す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功|尽《ことごと》く廃《すた》りて、不振の形勢|新《あらた》に見《あら》われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離《かいり》、不測の変を生ずる無きを保《ほ》せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦《また》宜《むべ》なりというべし。然《しか》れども此《この》時《とき》の勢《いきおい》、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容《い》れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看《み》る明確、事を断ずる勇決、実に是《こ》れ豪傑の気象、鉄石の心膓《しんちょう》を見《あら》わせるものならずして何ぞや。時に坐《ざ》に朱能《しゅのう》あり、能は張玉《ちょうぎょく》と共に初《はじめ》より王の左右の手たり。諸将の中《うち》に於て年最も少《わか》しと雖《いえど》も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長《たけ》八尺、年三十五、雄毅開豁《ゆうきかいかつ》、孝友|敦厚《とんこう》の人たり。慨然として席を立ち、剣を按《あん》じて右に趨《おもむ》きて曰く、諸君|乞《こ》うらくは勉《つと》めよ、昔|漢高《かんこう》は十たび戦って九たび敗れぬれど終《つい》に天下を有したり、今事を挙げてより連《しきり》に勝《かち》を得たるに、小挫《しょうざ》して輙《すなわ》ち帰らば、更《さら》に能《よ》く北面して人に事《つか》えんや。諸君雄豪誠実、豈《あに》退心あるべけんや、と云いければ、諸将|相《あい》見《み》て敢《あえ》て言《ものい》うものあらず、全軍の心機《しんき》一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能|後《のち》に龍州《りゅうしゅう》に死して、東平王《とうへいおう》に追封《ついほう》せらるゝに至りしもの、豈《あに》偶然ならんや。
燕軍の勢《いきおい》非にして、王の甲《よろい》を解かざるもの数日なりと雖《いえど》も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷《さいしょう》すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中《うち》に、燕今は且《まさ》に北に還《かえ》るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議|徐輝祖《じょきそ》を召還《めしかえ》したもう。輝祖《きそ》已《や》むを得ずして京《けい》に帰りければ、何福《かふく》の軍の勢《いきおい》殺《そ》げて、単糸《たんし》の※[#「糸+刃」、第4水準2−84−10]《しない》少《すくな》く、孤掌《こしょう》の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突《ちとつ》に備うる為に塹濠《ざんごう》を掘り、塁壁を作りて営と為《な》すを常としければ、軍兵休息の暇《いとま》少《すくな》く、往々|虚《むな》しく人力を耗《つく》すの憾《うらみ》ありて、士卒|困罷《こんひ》退屈の情あり。燕王の軍は塹塁《ざんるい》を為《つく》らず、たゞ隊伍《たいご》を分布し、陣を列して門と為《な》す。故に将士は営に至れば、即《すなわ》ち休息するを得、暇《いとま》あれば王|射猟《しゃりょう》して地勢を周覧し、禽《きん》を得《う》れば将士に頒《わか》ち、塁を抜くごとに悉《ことごと》く獲《う》るところの財物を賚《たま》う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是《かく》の如し。一は人|役《えき》に就《つ》くを苦《くるし》み、一は人|用《よう》を為《な》すを楽《たのし》む。彼此《ひし》の差、勝敗に影響せずんばあらず。
かくて対塁《たいるい》日を累《かさ》ぬる中《うち》、南軍に糧餉《りょうしょう》大《おおい》に至るの報あり。燕王|悦《よろこ》んで曰《いわ》く、敵必ず兵を分ちて之を護《まも》らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何《いか》で能《よ》く支えんや、と朱栄《しゅえい》、劉江《りゅうこう》等《ら》を遣《や》りて、軽騎を率いて、餉道《しょうどう》を截《き》らしめ、又|游騎《ゆうき》をして樵採《しょうさい》を妨げ擾《みだ》さしむ。何福《かふく》乃《すなわ》ち営を霊壁《れいへき》に移す。南軍の糧五方、平安《へいあん》馬歩《ばほ》六万を帥《ひき》いて之を護《まも》り、糧を負うものをして中《うち》に居《お》らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮《さえぎ》らしめ、子|高煦《こうこう》をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出《い》でゝ撃つべしと命じ、躬《み》ずから師を率いて逆《むか》え戦い、騎兵を両翼と為《な》す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王|歩軍《ほぐん》を麾《さしまね》いて縦撃《しょうげき》し、其《その》陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍|遂《つい》に乱れたり。何福等|此《これ》を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之《これ》を却《しりぞ》けしが、高煦は南軍の罷《つか》れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還《かえ》して掩《おお》い撃ちたり。是《ここ》に於《おい》て南軍|大《おおい》に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪《うしな》い、糧餉《りょうしょう》尽《ことごと》く燕の師に獲《え》らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞《ふさ》ぎて堅守しけるが、福|此《この》夜《よ》令を下して、明旦《めいたん》砲声三たびするを聞かば、囲《かこみ》を突いて出で、糧に淮河《わいか》に就くべし、と示したり。然《しか》るに此《これ》も亦《また》天か命《めい》か、其《その》翌日燕軍|霊壁《れいへき》の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此《これ》を我《わが》砲となし、争って急に門に趨《おもむ》きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞《ふさ》がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中|紛擾《ふんじょう》し、人馬|滾転《こんてん》す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷《びんしょう》を極む。南軍こゝに至って大敗収む可《べ》からず。宗垣《そうえん》、陳性善《ちんせいぜん》、彭与明《ほうよめい》は死し、何福は遁《のが》れ走り、陳暉《ちんき》、平安《へいあん》、馬溥《ばふ》、徐真《じょしん》、孫晟《そんせい》、王貴《おうき》等、皆|執《とら》えらる。平安の俘《とりこ》となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等《われら》此《これ》より安きを獲《え》んと。争って安《あん》を殺さんことを請う。安が数々《しばしば》燕兵を破り、驍将《ぎょうしょう》を斬《き》る数人なりしを以《もっ》てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問い
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