、意|稍《やや》休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌|也《なり》、東昌の事|了《おわ》る、此《これ》より全勝ならんのみと。益々《ますます》士を募り勢《いきおい》を鼓《こ》す。建文三年二月、燕王自ら文を撰《せん》し、流涕《りゅうてい》して陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの袍《ほう》を脱して之《これ》を焚《や》き、以て亡者《ぼうしゃ》に衣《き》するの意をあらわし、曰く、其《そ》れ一|糸《し》と雖《いえど》もや、以て余が心を識《し》れと。将士の父兄子弟|之《これ》を見て、皆感泣して、王の為《ため》に死せんと欲す。
燕王|遂《つい》に復《また》師を帥《ひき》いて出《い》づ。諸将士を諭《さと》して曰く、戦《たたかい》の道、死を懼《おそ》るゝ者は必ず死し、生《せい》を捐《す》つる者は必ず生く、爾《なんじ》等《ら》努力せよと。三月、盛庸《せいよう》と來河《きょうが》に遇《あ》う。燕将|譚淵《たんえん》、董中峰《とうちゅうほう》等《ら》、南将|荘得《そうとく》と戦って死し、南軍|亦《また》荘得《そうとく》、楚知《そち》、張皀旗《ちょうそうき》等を失う。日暮れ、各《おのおの》兵を斂《おさ》めて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に逼《せま》って野宿《やしゅく》す。天|明《あ》く、四面皆敵なり。王|従容《しょうよう》として去る。庸の諸将|相《あい》顧《かえり》みて愕《おどろ》き※[#「目+台」、第3水準1−88−79]《み》るも、天子の詔、朕をして叔父《しゅくふ》を殺すの名を負わしむる勿《なか》れの語あるを以て、矢を発《はな》つを敢《あえ》てせず。此《この》日《ひ》復《また》戦う。辰《たつ》より未《ひつじ》に至って、両軍|互《たがい》に勝ち互に負く。忽《たちまち》にして東北風|大《おおい》に起り、砂礫《されき》面《おもて》を撃つ。南軍は風に逆《さから》い、北軍は風に乗ず。燕軍|吶喊《とっかん》鉦鼓《しょうこ》の声地を振《ふる》い、庸の軍当る能《あた》わずして大《おおい》に敗れ走る。燕王戦|罷《や》んで営に還《かえ》るに、塵土《じんど》満面、諸将も識《し》る能わず、語声を聞いて王なるを覚《さと》りしという。王の黄埃《こうあい》天に漲《みなぎ》るの中に在《あ》って馳駆奔突《ちくほんとつ》して叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》号令せしの状、察す可《べ》きなり。
呉傑《ごけつ》、平安《へいあん》は、盛庸《せいよう》の軍を援《たす》けんとして、真定《しんてい》より兵を率いて出《い》でしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して糧《かて》を取り、営中|備《そなえ》無しと言わしめ、傑等を誘《いざな》う。傑等之を信じて、遂に※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2−79−10]沱河《こだか》に出づ。王|河《かわ》を渡り流《ながれ》に沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城《ごうじょう》に遇う。実に閏《うるう》三月|己亥《きがい》なり。翌日|大《おおい》に戦う。燕将|薛禄《せつろく》[#「薛禄」は底本では「薜禄」]、奮闘|甚《はなは》だ力《つと》む。王|驍騎《ぎょうき》を率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍|箭《や》を飛ばす雨の如《ごと》く、王の建つるところの旗、集矢《しゅうし》蝟毛《いもう》の如く、燕軍多く傷つく。而《しか》も王|猶《なお》屈せず、衝撃|愈《いよいよ》急なり。会《たまたま》また暴※[#「風にょう+(犬/(犬+犬))、第4水準2−92−41]《ぼうひょう》起り、樹《き》を抜《ぬ》き屋《おく》を飜《ひるがえ》す。燕軍之に乗じ、傑等|大《おおい》に潰《つい》ゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将《ぎょうしょう》※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]※[#「晉+戈」、第4水準2−12−85]《とうしん》、陳※[#「周+鳥」、第3水準1−94−62]《ちんちゅう》等を擒《とりこ》にし、斬首《ざんしゅ》六万余級、尽《ことごと》く軍資器械を得たり。王|其《そ》の旗を北平《ほくへい》に送り、世子《せいし》に諭《さと》して曰く、善《よ》く之《これ》を蔵し、後世をして忘る勿《なか》らしめよと。旗世子の許《もと》に至る。時に降将《こうしょう》顧成《こせい》、坐《ざ》に在《あ》りて之を見る。成は操舟《そうしゅう》を業とする者より出づ。魁岸《かいがん》勇偉、膂力《りょりょく》絶倫、満身の花文《かぶん》、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。嘗《かつ》て太祖に随《したが》って出でし時、巨舟《きょしゅう》沙《すな》に膠《こう》して動かず。成|即《すなわち》便舟を負いて行きしことあり。鎮江《ちんこう》の戦《たたかい》に、執《とら》えられて縛《ばく》せらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀《とう》を持てる者を殺して脱帰し、直《ただち》に衆を導いて城を陥《おと》しゝことあり。勇力察す可《べ》し。後《のち》戦功を以《も》って累進して将となり、蜀《しょく》を征し、雲南《うんなん》を征し、諸蛮《しょばん》を平らげ、雄名世に布《し》く。建文元年|耿炳文《こうへいぶん》に従いて燕と戦う。炳文敗れて、成|執《とら》えらる。燕王自ら其《その》縛を解いて曰く、皇考の霊、汝《なんじ》を以《もっ》て我に授くるなりと。因《よ》って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を帰《き》し、遂《つい》に世子を輔《たす》けて北平を守る。然《しか》れども多く謀画《ぼうかく》を致すのみにして、終《つい》に兵に将として戦うを肯《がえ》んぜす、兵器を賜《たま》うも亦《また》受けず。蓋《けだ》し中年以後、書を読んで得るあるに因《よ》る。又一種の人なり。後《のち》、太子|高熾《こうし》の羣小《ぐんしょう》の為《ため》に苦《くるし》めらるるや、告げて曰く、殿下は但《ただ》当《まさ》に誠を竭《つく》して孝敬《こうけい》に、孳々《しし》として民を恤《めぐ》みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措《お》くに足らずと。識見亦高しというべし。成は是《かく》の如き人なり。旗を見るや、愴然《そうぜん》として之を壮《そう》とし、涙下りて曰く、臣|少《わか》きより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴《へ》たること多きも、未《いま》だ嘗《かつ》て此《かく》の如きを見ざるなりと。水滸伝《すいこでん》中の人の如き成をして此《この》言を為《な》さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を攬《と》る所以《ゆえん》のもの、実に王の此《こ》の勇往|邁進《まいしん》、艱危《かんき》を冒して肯《あえ》て避けざるの雄風《ゆうふう》にあらずんばあらざる也。
四月、燕兵|大名《だいみょう》に次《じ》す。王、斉泰《せいたい》と黄子澄《こうしちょう》との斥《しりぞ》けらるゝを聞き、書を上《たてまつ》りて、呉傑《ごけつ》、盛庸《せいよう》、平安《へいあん》の衆を召還せられんことを乞《こ》い、然《しか》らずんば兵を釈《と》く能《あた》わざるを言う。帝|大理少卿《たいりしょうけい》薛※[#「山/品」、第3水準1−47−85]《せつがん》[#「薛※[#「山/品」、第3水準1−47−85]」は底本では「薜※[#「山/品」、第3水準1−47−85]」]を遣《や》りて、燕王及び諸将士の罪を赦《ゆる》して、本国に帰らしむることを詔《みことのり》し、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を以《もっ》て其《その》後《あと》に躡《つ》かしめんとす。※[#「山/品」、第3水準1−47−85]《がん》到りて却《かえ》って燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語|直《ちょく》にして意|誠《まこと》なるを奏し、皇上|権奸《けんかん》を誅《ちゅう》し、天下の兵を散じたまわば、臣|単騎《たんき》闕下《けっか》に至らんと、云える燕王の語を奏す。帝|方孝孺《ほうこうじゅ》に語りたまわく、誠に※[#「山/品」、第3水準1−47−85]の言の如くならば、斉黄《せいこう》我を誤るなりと。孝孺|悪《にく》みて曰く、※[#「山/品」、第3水準1−47−85]の言、燕の為《ため》に游説《ゆうぜい》するなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮《しき》武勝《ぶしょう》を遣《や》りて、朝廷兵を罷《や》むるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔《ぜんしょう》と背馳《はいち》すと奏す。帝書を得て兵を罷《や》むるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康《こうこう》皇帝|同産《どうさん》の弟なり、朕《ちん》の叔父《しゅくふ》なり、吾《われ》他日|宗廟《そうびょう》神霊に見《まみ》えざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に聚《あつ》む可からず。彼長駆して闕《けつ》を犯さば、何を以て之《これ》を禦《ふせ》がん、陛下惑いたもうなかれと。勝《しょう》を錦衣獄《きんいごく》に下す。燕王|聞《きい》て大《おおい》に怒る。孝孺の言、真《まこと》に然《しか》り、而して建文帝の情《じょう》、亦|敦《あつ》しというべし。畢竟《ひっきょう》南北相戦う、調停の事、復《また》為《な》す能わざるの勢《いきおい》に在《あ》り、今に於《おい》て兵戈《へいか》の惨《さん》を除かんとするも、五|色《しき》の石、聖手にあらざるよりは、之を錬《ね》ること難きなり。
此《この》月《つき》燕王|指揮《しき》李遠《りえん》をして軽騎六千を率いて徐沛《じょはい》に詣《いた》り、南軍の資糧を焚《や》かしむ。李遠、丘福《きゅうふく》、薛禄《せつろく》[#「薛禄」は底本では「薜緑」]と策応して、能《よ》く功を収《おさ》め、糧船数万|艘《そう》、糧数百万を焚《や》く。軍資器械、倶《とも》に※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]燼《かいじん》となり、河水|尽《ことごと》く熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭《しんがい》す。
七月、平安《へいあん》兵を率いて真定より北平に到り、平村《へいそん》に営す。平村は城を距《さ》る五十里のみ。燕王の世子《せいし》、危《あやう》きを告ぐ。王|劉江《りゅうこう》を召して策を問う。江|乃《すなわ》ち兵を率いて※[#「濾」の「思」に代えて「乎」、第4水準2−79−10]沱《こだ》を渡り、旗幟《きし》を張り、火炬《かきょ》を挙げ、大《おおい》に軍容を壮《さかん》にして安と戦う。安の軍敗れ、安|還《かえ》って真定に走る。
方孝孺の門人|林嘉猷《りんかゆう》、計《はかりごと》をもって燕王父子をして相《あい》疑わしめんとす。計《けい》行われずして已《や》む。
盛庸等、大同《だいどう》の守将|房昭《ぼうしょう》に檄《げき》し、兵を引いて紫荊関《しけいかん》に入り、保定《ほてい》の諸県を略し、兵を易州《えきしゅう》の西水寨《せいすいさい》に駐《とど》め、険《けん》に拠《よ》りて持久の計を為《な》し、北平を窺《うかが》わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平|危《あやう》しとて、遂《つい》に令を下して師を班《かえ》す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併《あわ》せて寨を破る。房昭走りて免《のが》る。
十一月、※[#「馬+付」、第4水準2−92−84]馬都尉《ふばとい》梅殷《ばいいん》をして淮安《わいあん》を鎮守《ちんしゅ》せしむ。殷は太祖の女《じょ》の寧国《ねいこく》公主《こうしゅ》に尚《しょう》す。太祖の崩ぜんとするや、其の側《かたえ》に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝《なんじ》老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢《あえ》て天に違《たが》う者あらば、朕が為《ため》に之《これ》を伐《う》て、と言い訖《おわ》りて崩《かく》れたまえるなり。燕の勢《いきおい》漸《ようや》く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃《すなわ》ち淮南《わいなん》の民を募り、軍士を合《がっ》して四十万と号し、殷に命じて之を統《す》べて、淮上《わいじょう》に駐《とど》まり、燕師を扼《やく》せしむ。燕王これを聞き、殷に
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