い》に畢《ことごと》く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛《ぼうかん》の陣を擣《つ》いて之を破る。張玉等|之《これ》を見て懼色《くしょく》あり。王曰く、勝負《しょうはい》は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為《ため》に敵を破らんと。既《すなわ》ち精鋭数千を麾《さしまね》いて敵の左翼に突入す。王の子|高煦《こうこう》、張玉等の軍を率いて斉《ひと》しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声《かんせい》天に震い 飛矢《ひし》雨の如し。王の馬、三たび創《きず》を被《こうむ》り、三たび之を易《か》う。王|善《よ》く射る。射るところの箭《や》、三|箙《ふく》皆尽く。乃《すなわ》ち剣を提《ひっさ》げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒《けんぽう》折れ欠けて、撃《う》つに堪《た》えざるに至る。瞿能《くのう》と相《あい》遇《あ》う。幾《ほと》んど能の為に及ばる。王急に走りて※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]《つつみ》に登り、佯《いつわ》って鞭《むち》を麾《さしまね》いで、後継者を招くが如くして纔《わずか》に免《まぬか》れ、而して復《また》衆を率いて馳《は》せて入る。平安|善《よ》く鎗刀《そうとう》を用い、向う所敵無し。燕将|陳亨《ちんこう》、安の為に斬られ、徐忠亦|創《きず》を被《こうむ》る。高煦《こうこう》急を見、精騎数千を帥《ひき》い、前《すす》んで王と合《がっ》せんとす。瞿能《くのう》また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒|相《あい》視《み》て驚き動く。王これに乗じ、勁騎《けいき》を以て繞《めぐ》って其《その》後《うしろ》に出で、突入|馳撃《しげき》し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏《うち》に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将|兪通淵《ゆつうえん》、勝聚《しょうしゅう》等《ら》皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼《せま》り火を縦《はな》つ。急風火を扇《あお》る。是《ここ》に於《おい》て南軍|大《おおい》に潰《つい》え、郭英《かくえい》等《ら》は西に奔《はし》り、景隆は南に奔る。器械|輜重《しちょう》、皆燕の獲《う》るところとなり、南兵の横尸《おうし》百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此《この》戦《たたかい》、軍を全くして退く者、徐輝祖《じょきそ》あるのみ。瞿能、平安等、驍将《ぎょうしょう》無きにあらずと雖《いえど》も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦《てんしょう》の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以《もっ》てす。北軍の克《か》ち、南軍の潰《つい》ゆる、まことに所以《ゆえ》ある也。
山東参政《さんとうさんせい》鉄鉉《てつげん》は儒生より身を起し、嘗《かつ》て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石《ていせき》という字《あざな》を賜わりたる者なり。北征の師の出《い》づるや、餉《しょう》を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師|潰《つい》えて、諸州の城堡《じょうほ》皆|風《ふう》を望みて燕に下るに会い、臨邑《りんゆう》に次《やど》りたるに、参軍|高巍《こうぎ》の南帰するに遇《あ》いたり。偕《とも》に是《こ》れ文臣なりと雖《いえど》も、今武事の日に当り、目前に官軍の大《おおい》に敗れて、賊威の熾《さか》んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上《たてまつ》りしも効《かい》無かりしを歎《たん》ずれば、鉉は忠臣の節に死する少《すくな》きを憤る。慨世の哭《なげき》、憂国の涙、二人|相《あい》持《じ》して、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として泣きしが、乃《すなわ》ち酒を酌《く》みて同《とも》に盟《ちか》い、死を以て自ら誓い、済南《せいなん》に趨《はし》りてこれを守りぬ。景隆は奔《はし》りて済南に依《よ》りぬ。燕王は勝《かち》に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆|尚《なお》十余万の兵を有せしが、一戦に復《また》敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢|愈《いよいよ》旺《さか》んにして城を屠《ほふ》らんとす。鉄鉉、左都督《さととく》盛庸《せいよう》、右都督《ゆうととく》陳暉《ちんき》等《ら》と力を尽して捍《ふせ》ぎ、志を堅うして守り、日を経《ふ》れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使《さんとうふせいしし》と為《な》し、盛庸を大将軍と為《な》し、陳暉を副将軍に陞《のぼ》す。景隆は召還《めしかえ》されしが、黄子澄《こうしちょう》、練子寧《れんしねい》は之を誅《ちゅう》せずんば何を以《もっ》て宗社《そうしゃ》に謝し将士を励まさんと云《い》いしも、帝|卒《つい》に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂《つい》に下《くだ》すこと能《あた》わず。乃《すなわ》ち城外の諸渓《しょけい》の水を堰《せ》きて灌《そそ》ぎ、一城の士《し》を魚とせんとす。城中|是《ここ》に於て大《おおい》に安んぜず。鉉曰く、懼《おそ》るゝ勿《なか》れ、吾《われ》に計ありと。千人を遣《や》りて詐《いつわ》りて降《くだ》らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予《かね》て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯《うかが》いて大鉄板を墜《おと》して之《これ》を撃ち、又別に伏《ふく》を設けて橋を断たしめんとす。燕王|計《はかりごと》に陥り、馬に乗じ蓋《がい》を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板|驟《にわか》に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易《か》えて馳《は》せて出《い》づ。橋を断たんとす。橋|甚《はなは》だ堅《かた》し。未《いま》だ断つに及ばずして、王|竟《つい》に逸し去る。燕王|幾《ほと》んど死して幸《さいわい》に逃る。天助あるものゝ如し。王|大《おおい》に怒り、巨※[#「石+駁」、UCS−791F、316−5]《きょほう》を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉|愈《いよいよ》屈せず、太祖高皇帝の神牌《しんぱい》を書して城上に懸けしむ。燕王|敢《あえ》て撃たしむる能《あた》わず。鉉又|数々《しばしば》不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅《おびや》かさしむ。燕王|憤《いか》ること甚《はなはだ》しけれども、計の出づるところ無し。道衍《どうえん》書を馳《は》せて曰く、師老いたり、請う暫《しば》らく北平に還《かえ》りて後挙を図りたまえと。王|囲《かこみ》を撤して還る。鉉と盛庸|等《ら》と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍|大《おおい》に振う。鉉|是《ここ》に於て擢《ぬきん》でられて兵部尚書《へいぶしょうしょ》となり、盛庸は歴城侯《れきじょうこう》となりたり。
盛庸は初め耿炳文《こうへいぶん》に従い、次《つい》で李景隆《りけいりゅう》に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦《ぼうぎょ》、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕《へいえん》将軍となり、陳暉《ちんき》、平安《へいあん》、馬溥《ばふ》、徐真《じょしん》等の上に立ち、呉傑《ごけつ》、徐凱《じょがい》等と与《とも》に燕を伐《う》つの任に当りぬ。庸|乃《すなわ》ち呉傑、平安をして西の方|定州《ていしゅう》を守らしめ、徐凱をして東の方|滄州《そうしゅう》に屯《たむろ》せしめ、自ら徳州に駐《とど》まり、猗角《きかく》の勢を為《な》して漸《ようや》く燕を蹙《しじ》めんとす。燕王、徳州の城の、修築|已《すで》に完《まった》く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰《つい》え※[#「土へん+己」、UCS−572E、317−6]《くず》るゝ[#「※[#「土へん+己」、UCS−572E、317−6]《くず》るゝ」は底本では「※[#「土へん+已」、317−6]《くず》るゝ」]こと久しくして破り易《やす》きを思い、之《これ》を下して庸の勢を殺《そ》がんと欲す。乃《すなわ》ち陽《よう》に遼東《りょうとう》を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津《てんしん》より直沽《ちょくこ》に至り、俄《にわか》に河《か》に沿いて南下するを令す。軍士|猶《なお》知らず、其《そ》の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途《みち》に偵騎《ていき》に遇《あ》えば、尽《ことごと》く之《これ》を殺し、一昼夜にして暁《あかつき》に比《およ》びて滄州に至る。凱の燕師の到《いた》れるを覚《さと》りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能《あた》わず。張玉の肉薄して登るに及び、城|遂《つい》に抜かれ、凱と程暹《ていせん》、兪※[#「王+其」、第3水準1−88−8]《ゆき》、趙滸《ちょうこ》等皆|獲《え》らる。これ実に此《この》年《とし》十月なり。
十二月、燕王河に循《したが》いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清《りんせい》に至り、館陶《かんとう》に屯《たむろ》し、次《つい》で大名府《たいめいふ》を掠《かす》め、転じて※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]上《ぶんじょう》に至り、済寧《せいねい》を掠《かす》めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其《その》後《のち》を躡《ふ》み、東昌《とうしょう》に営したり。此《この》時《とき》北軍|却《かえ》って南に在《あ》り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢《いきおい》成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初《はじめ》は官軍の先鋒《せんぽう》孫霖《そんりん》、燕将《えんしょう》朱栄《しゅえい》、劉江《りゅうこう》の為《ため》に敗れて走りしが、両軍|持重《じちょう》して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉|牛《うし》を宰して将士を犒《ねぎら》い、義を唱《とな》え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密《ひそか》に火器|毒弩《どくど》を列《つら》ねて、粛《しゅく》として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟《こそう》して薄《せま》る。火器|電《でん》の如《ごと》くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟《ころうしきょう》、皆傷ついて倒る。又|平安《へいあん》の兵の至るに会う。庸|是《ここ》に於て兵を麾《さしまね》いて大《おおい》に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝《つ》く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝《つ》く。庸陣を開いて王の入るに縦《まか》せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃|甚《はなは》だ力《つと》むれども出《い》づることを得ず、殆《ほと》んど其の獲《う》るところとならんとす。朱能《しゅのう》、周長《しゅうちょう》等、王の急を見、韃靼《だったん》騎兵を縦《はな》って庸の軍の東北角を撃つ。庸|之《これ》を禦《ふせ》がしめ、囲《かこみ》やゝ緩《ゆる》む。能《のう》衝いて入って死戦して王を翼《たす》けて出づ。張玉《ちょうぎょく》も亦《また》王を救わんとし、王の已《すで》に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍|勝《かち》に乗じ、残獲万余人、燕軍|大《おおい》に敗れて奔《はし》る。庸兵を縦《はな》って之を追い、殺傷甚だ多し。此《この》役《えき》や、燕王|数々《しばしば》危《あやう》し、諸将帝の詔《みことのり》を奉ずるを以て、刃《じん》を加えず。燕王も亦|之《これ》を知る。王騎射|尤《もっと》も精《くわ》し、追う者王を斬《き》るを敢《あえ》てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々《たまたま》高煦《こうこう》、華衆《かしゅう》等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
燕王張玉の死を聞きて痛哭《つうこく》し、諸将と語るごとに、東昌《とうしょう》の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾《われ》今に至って寝食安からずと。涕《なみだ》下りて已《や》まず。諸将も皆泣く。後《のち》功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間《かかん》王を追封《ついほう》す。
初め燕王《えんおう》の師の出《い》づるや、道衍《どうえん》曰《いわ》く、師は行《ゆ》いて必ず克《か》たん、たゞ両日を費《ついや》すのみと。東昌《とうしょう》より還《かえ》るに及びて、王多く精鋭を失い、張玉《ちょうぎょく》を亡《うしな》うを以《もっ》て
前へ
次へ
全24ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング