るには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀《びもくそしゅう》、雍容都雅《ようようとが》、顧盻偉然《こべんいぜん》、卒爾《そつじ》に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡《しばしば》出《い》でゝ軍を湖広《ここう》陝西《せんせい》河南《かなん》に練り、左軍都督府事《さぐんととくふじ》となりたるほかには、為《な》すところも無く、其《その》功としては周王《しゅうおう》を執《とら》えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮《こひ》にして羊質《ようしつ》、所謂《いわゆる》治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を※[#「足へん+諜のつくり」、UCS−8E40、305−1]《ふ》み剣を揮《ふる》いて進み、創《きず》を裹《つつ》み歯を切《くいしば》って闘《たたか》うが如き経験は、未《いま》だ曾《かつ》て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其《その》真を得たりしなり。
李景隆は大兵を率いて燕王を伐《う》たんと北上す。帝は猶《なお》北方憂うるに足らずとして意《こころ》を文治に専らにし、儒臣|方孝孺《ほうこうじゅ》等《ら》と周官の法度《ほうど》を討論して日を送る、此《この》間《かん》に於て監察御史《かんさつぎょし》韓郁《かんいく》(韓郁|或《あるい》は康郁《こういく》に作る)というもの時事を憂いて疏《そ》を上《たてまつ》りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒《じゅじゅ》となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康《こうこう》の手足《しゅそく》なりとなし、之《これ》を待つことの厚からずして、周王|湘《しょう》王|代《だい》王|斉《せい》王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為《ため》に計る者の過《あやまち》にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為《な》し、諺《ことわざ》に曰《いわ》く、親者《しんしゃ》之を割《さ》けども断たず、疎者《そしゃ》之を続《つ》げども堅《かた》からずと、是《これ》殊《こと》に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜《び》し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈《ゆる》し、湘王を封《ほう》じ、周王を京師《けいし》に還《かえ》し、諸王|世子《せいし》をして書を持し燕に勧め、干戈《かんか》を罷《や》め、親戚《しんせき》を敦《あつ》うしたまえ、然らずんば臣|愚《ぐ》おもえらく十年を待たずして必ず噬臍《ぜいせい》の悔《くい》あらん、というに在《あ》り。其の論、彝倫《いりん》を敦《あつ》くし、動乱を鎮《しず》めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時|既《すで》に去り、勢《いきおい》既に成るの後に於て、此《この》言あるも、嗚呼《ああ》亦|晩《おそ》かりしなり。帝|遂《つい》に用いたまわず。
景隆の炳文《へいぶん》に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五|敗兆《はいちょう》を具せるを指摘し、我|之《これ》を擒《とりこ》にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平《ほくへい》を世子《せいし》に守らしめ、東に出でゝ、遼東《りょうとう》の江陰侯《こういんこう》呉高《ごこう》を永平より逐《お》い、転じて大寧《たいねい》に至りて之を抜き、寧《ねい》王を擁して関《かん》に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥《ひき》いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲《りじょう》、梁明《りょうめい》等《ら》、世子《せいし》を奉じて防守甚だ力《つと》むと雖《いえど》も、景隆が軍|衆《おお》くして、将も亦《また》雄傑なきにあらず、都督《ととく》瞿能《くのう》の如き、張掖門《ちょうえきもん》に殺入して大《おおい》に威勇を奮い、城|殆《ほとん》ど破る。而《しか》も景隆の器《き》の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟《ま》ちて倶《とも》に進めと令し、機に乗じて突至せず。是《ここ》に於て守る者|便《べん》を得、連夜水を汲《く》みて城壁に灌《そそ》げば、天寒くして忽《たちま》ち氷結し、明日に至れば復《また》登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予《あらかじ》め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱《つく》さんことを期せしに、景隆既に※[#「(士/冖/一/弓)+殳」、第3水準1−84−25]《やごろ》に入り来《きた》りぬ、何ぞ箭《や》を放たざらんや。大寧より還《かえ》りて会州《かいしゅう》に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬《りひん》を右軍《ゆうぐん》に、徐忠《じょちゅう》を前軍に、降将|房寛《ぼうかん》を後軍に将たらしめ、漸《ようや》く南下して京軍《けいぐん》と相対したり。十一月、京軍の先鋒《せんぽう》陳暉《ちんき》、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷《もくとう》して曰く、天|若《も》し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷|果《はた》して合す。燕の師勇躍して進み、暉《き》の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃《きょうげき》し、遂に連《しき》りに其七営を破って景隆の営に逼《せま》る。張玉|等《ら》も陣を列《つら》ねて進むや、城中も亦《また》兵を出して、内外|交《こもごも》攻む。景隆支うる能《あた》わずして遁《のが》れ、諸軍も亦|粮《かて》を棄《す》てゝ奔《はし》る。燕の諸将|是《ここ》に於て頓首《とんしゅ》して王の神算及ぶ可《べ》からずと賀す。王|曰《いわ》く、偶中《ぐうちゅう》のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙《けん》す。燕王が英雄の心を攬《と》るも巧《たくみ》なりというべし。
景隆が大軍功無くして、退いて徳州《とくしゅう》に屯す。黄子澄|其《その》敗《はい》を奏せざるを以《もっ》て、十二月に至って却《かえ》って景隆に太子《たいし》太師《たいし》を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌《こうしょう》を攻めて之を降す。
前に疏《そ》を上《たてまつり》りて、諸藩を削るを諫《いさ》めたる高巍《こうぎ》は、言用いられず、事|遂《つい》に発して天下動乱に至りたるを慨《なげ》き、書を上《たてまつり》りて、臣願わくは燕に使《つかい》して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上《たてまつり》りたり。其《その》略に曰く、太祖《たいそ》[#「太祖」は底本では「大祖」]升遐《しょうか》したまいて意《おも》わざりき大王と朝廷と隙《げき》あらんとは。臣おもえらく干戈《かんか》を動かすは和解に若《し》かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見《まみ》えん。昔周公流言を聞きては、即《すなわ》ち位を避けて東に居《い》たまいき。若《も》し大王|能《よ》く首計《しゅけい》の者を斬《き》りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質《しち》にし、骨肉|猜忌《さいき》の疑《うたがい》を釈《と》き、残賊離間の口を塞《ふさ》ぎたまわば、周公と隆《さか》んなることを比すべきにあらずや。然《しか》るを慮《おもんばかり》こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇《きょうう》を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉《し》くことを得て、殿下文臣を誅《ちゅう》することを仮りて実は漢の呉《ご》王の七国に倡《とな》えて晁錯《ちょうさく》を誅せんとしゝに効《なら》わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠《よ》りて数群を取りたもうと雖《いえど》も、数月《すうげつ》以来にして、尚《なお》※[#「くさかんむり/最」、第4水準2−86−82]爾《さつじ》たる一隅の地を出《い》づる能わず、較《くら》ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其《その》一《いつ》をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統《す》べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則《すなわ》ち君臣たり、親《しん》は則ち骨肉たるも、尚《なお》離れ間《へだ》たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍《ぎ》が念《おもい》こゝに至るごとに大王の為に流涕《りゅうてい》せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言《ことば》を信じ、上表《じょうひょう》謝罪し、甲を按《お》き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥《かんゆう》あり、天人共に悦《よろこ》びて、太祖在天の霊も亦《また》安んじたまわん。※[#「にんべん+淌のつくり」、第3水準1−14−30]《もし》迷《まよい》を執りて回《かえ》らず、小勝を恃《たの》み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為《な》す可からざるの悖事《はいじ》を僥倖《ぎょうこう》するを敢《あえ》てしたまわば、臣大王の為に言《もう》すべきところを知らざる也《なり》。況《いわ》んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜《むこ》の民驚きを受く。仁を求め国を護《まも》るの義と、逕庭《けいてい》あるも亦《また》甚《はなはだ》し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪《さんだつ》するの批議無きにあらじ。もし幸《さいわい》にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何《いかん》の人と謂《い》い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣《ふゆう》の微命《びめい》、もとより死を畏《おそ》れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩《ぎょおん》を蒙《こうむ》りて、臣が孝行を旌《あらわ》したもうを辱《かたじけな》くす。巍|既《すで》に孝子たる、当《まさ》に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見《まみ》ゆるを得ば、巍も亦以て愧《はじ》無かるべし。巍至誠至心、直語して諱《い》まず、尊厳を冒涜《ぼうとく》す、死を賜うも悔《くい》無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚《はばか》るところ無く白《もう》しける。されど燕王答えたまわねば、数次《しばしば》書を上《たてまつ》りけるが、皆|効《かい》無かりけり。
巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此《これ》に対して如何《いかん》の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦《たたかい》を開く、巍の言《ことば》善《よ》しと雖も、大河既に決す、一葦《いちい》の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其|言《げん》と、忠孝|敦厚《とんこう》の人たるに負《そむ》かず。数百歳の後、猶《なお》読む者をして愴然《そうぜん》として感ずるあらしむ。魏と韓郁《かんいく》とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正《まさ》に拠りて、言《げん》を為せる者也。
年は新《あらた》になりて建文二年となりぬ。燕《えん》は洪武《こうぶ》三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州《いしゅう》を下し、大同《だいどう》を攻む。景隆《けいりゅう》師を出して之《これ》を救わんとすれば、燕王は速く居庸関《きょようかん》より入りて北平《ほくへい》に還《かえ》り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼《だったん》の兵|来《きた》りて燕を助く。蓋《けだ》し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮《はか》りて、燕王の請えるなり。春|闌《たけなわ》にして、南軍|勢《いきおい》を生じぬ。四月|朔《さく》、景隆兵を徳州《とくしゅう》に会す、郭英《かくえい》、呉傑《ごけつ》は真定《しんてい》に進みぬ。帝は巍国公《ぎこくこう》徐輝祖《じょきそ》をして、京軍《けいぐん》三万を帥《ひき》いて疾馳《しっし》して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑|等《ら》、軍六十万を合《がっ》し、百万と号して白溝河《はくこうが》に次《じ》す。南軍の将|平安《へいあん》驍勇《ぎょうゆう》にして、嘗《かつ》て燕王に従いて塞北《さいほく》に戦い、王の兵を用いるの虚実を識《し》る。先鋒《せんぽう》となりて燕に当り、矛《ほこ》を揮《ふる》いて前《すす》む。瞿能《くのう》父子も亦《また》踴躍して戦う。二将の向《むか》う所、燕兵|披靡《ひび》す。夜、燕王、張玉《ちょうぎょく》を中軍に、朱能《しゅのう》を左軍に、陳亨《ちんこう》を右《ゆう》軍に、丘福《きゅうふく》を騎兵に将とし、馬歩《ばほ》十余万、黎明《れいめ
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