話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。」
いまは櫛巻《くしまき》が艶々《つやつや》しく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。
「女中《おんな》部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。……変化《おばけ》でございますわね――ほんとうに。」
と鬢《びん》に手を触ったまままた俯向《うつむ》く。
「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で出会《でっくわ》すのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――馬鹿々々しいほど驚いたぜ。」
言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、
「いまだに、胸がどきどきするね。」
と、どうした料簡《りょうけん》だか、ありあわせた籐椅子《とういす》に、ぐったりとなって肱《ひじ》をもたせる。
「あなた、お寒くはございませんの。」
「今度は赫々《かっか》とほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。」
「まあ……」
三
「お澄さん……私は見事に強請《ねだ》ったね。――強請ったより強請《ゆすり》だよ。いや、この時刻だから強盗の所業《わざ》です。しかし難有《ありがた》い。」
と、枕だけ刎《は》ねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、怪《け》しからず恐悦している。
客は、手を曳《ひ》いてくれないでは、腰が抜けて二階へは上《あが》れないと、串戯《じょうだん》を真顔で強いると、ちょっと微笑《ほほえ》みながら、それでも心《しん》から気の毒そうに、否《いや》とも言わず、肩を並べて、階子段《はしごだん》を――上《あが》ると蜿《うね》りしなの寂しい白い燈《ひ》に、顔がまた白く、褄《つま》が青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、幾度《いくたび》もあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの銚子《ちょうし》が、給仕は遁《に》げたし、一人では詰《つま》らないから、寝しなに呷《あお》ろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり寐込《ねこ》んだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出した
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