し、……またそうも言った。――お澄が念のため時間を訊《き》いた時、懐中時計は二時半に少し間《ま》があった。
「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽く柔《やわらか》にすり抜けて、扉《ひらき》の口から引返す。……客に接しては、草履を穿《は》かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に鯊《はぜ》を釣落した苦き経験のある男が、今度は鱸《すずき》を水際で遁《にが》した。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて硝子戸《がらすど》越《ごし》に湖《うみ》を覗《のぞ》いた。
連《つらな》り亘《わた》る山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に縁《へり》を繞《めぐ》らす、湖《うみ》は、一面の大《おおい》なる銀盤である。その白銀《しろがね》を磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の汀《みぎわ》なる枯蘆《かれあし》に、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い珊瑚珠《さんごじゅ》のように見えて、その中から、瑪瑙《めのう》の桟《さん》に似て、長く水面を遥《はるか》に渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干を繞《めぐら》した月の色と、露の光をうけるための台《うてな》のような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこに鎖《とざ》した雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なき燈《ともしび》のもれるのであろう。
鐘の音《ね》も聞えない。
潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か雁《かり》か、※[#「辟/鳥」、436−12]※[#「(厂+虎)+鳥」、第4水準2−94−36]《かいつぶり》か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒子《ほくろ》に似ていた。
冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、蟻《あり》が冬籠《ふゆごもり》に貯えたような件《くだん》のその一銚子《ひとちょうし》。――誰に習っていつ覚えた遣繰《やりくり》だか、小皿の小鳥に紙を蔽《おお》うて、煽《あお》って散らないように杉箸《すぎばし》をおもしに置いたのを取出して、自棄《やけ》に茶碗で呷った処へ――あの、跫音《あしおと》は――お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「山家《やまが》ですわね。」と胡桃《くるみ》の砂糖煮。台十能《だいじゅう》に火を持っ
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