に顔が見られなかった。首筋の骨が硬《こわ》ばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」
 お澄が静《しずか》にそう言うと、からからと釣《つり》を手繰って、露台の硝子戸《がらすど》に、青い幕を深く蔽《おお》うた。
 閨《ねや》の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
 雪は※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》となって手を支《つ》いた。
「私は懺悔《ざんげ》をする、皆嘘だ。――画工《えかき》は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄《やけ》まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌《いはい》に面目のあるような男じゃない。――その大革鞄《おおかばん》も借《かり》ものです。樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画《か》いたのは事実です。女郎屋《じょろや》の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結《い》わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕《こ》がせて、湖の鷭を狙撃《ねらいうち》に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等《やつら》の口うつしに言うらしい、その三頭も癪《しゃく》に障った。なにしろ、私の画《え》が突刎《つっぱ》ねられたように口惜《くやし》かった。嫉妬《ねたみ》だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪《こら》えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
 とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊《あざみ》です。路傍《みちばた》の塵《ちり》なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事
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