鬢《びん》のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条《ひとすじ》を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇間《ほうかん》が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
扉《ドア》から雪次郎が密《そっ》と覗くと、中段の処で、肱《ひじ》を硬直に、帯の下の腰を圧《おさ》えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢《けはい》がしたか、ふいに真青《まっさお》な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
隣室には、しばらく賤《いやし》げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
「首途《かどで》に、くそ忌々《いまいま》しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留《や》めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」
六
「貴方《あなた》、ちょっと……お話がございます。」
――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻《さっき》お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「撃《ぶ》つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面《おもて》がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳《ひ》いて動いた。船である。
睡眠《ねむり》は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿《いのちなが》かれ、鷭よ。
雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
お澄が入って来た――が、すぐ
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