地震だって壊せやしない。天を蔽《おお》い地に漲《みなぎ》る、といった処で、颶風《はやて》があれば消えるだろう。儚《はかな》いものではあるけれども――ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。」
「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの手技《てわざ》を称《ほ》め賛《たた》えようと、それで、「糸塚」という記念の碑を。」
「…………」
「もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、丹《に》で染めるんだっていうんですわ。」
「そこで、「友禅の碑」と、対《つい》するのか。しかし、いや、とにかく、悪い事ではない。場所は、位置は。」
「さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。」
辻町は、あの、盂蘭盆の切籠燈《きりこ》に対する、寺の会釈を伝えて、お京が渠《かれ》に戯れた紅糸《べにいと》を思って、ものに手繰られるように、提灯とともにふらりと立った。
五
「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」
「何、そんなものの居よう筈《はず》はない。」
とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。
いま辻町は、蒼然《そうぜん》として苔蒸《こけむ》した一基の石碑を片手で抱いて――いや、抱くなどというのは憚《はば》かろう――霜より冷くっても、千五百石の女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》の、石の躯《むくろ》ともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、一叢《ひとむら》の嫁菜の花と、入交《いりま》ぜに、空を蔽うた雑樹を洩《も》れる日光に、幻の影を籠《こ》めた、墓はさながら、梢《こずえ》を落ちた、うらがなしい綺麗な錦紗《きんしゃ》の燈籠の、うつむき伏した風情がある。
ここは、切立《きったて》というほどではないが、巌組《いわぐ》みの径《みち》が嶮《けわ》しく、砕いた薬研《やげん》の底を上《あが》る、涸《か》れた滝の痕《あと》に似て、草土手の小高い処で、※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]々《るいるい》と墓が並び、傾き、また倒れたのがある。
上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯を抽《ぬ》いて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫って蟠《わだかま》った根に寄って、先祖代々とともに、お米のお母《っか》さんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。
それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと罵倒《ばとう》しようが、白く据《すわ》って、ぼっと包んだ線香の煙が靡《なび》いて、裸|蝋燭《ろうそく》の灯が、静寂な風に、ちらちらする。
榎を潜《くぐ》った彼方《かなた》の崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山の裙《すそ》まで、寺の裏庭を取りまわして一谷《ひとたに》一面の卵塔である。
初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。
見たまえ――お米が外套《がいとう》を折畳みにして袖に取って、背後《うしろ》に立添った、前踞《まえこご》みに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏の媚《なまめ》かしい中へ、さし入れた。手首に冴えて淡藍《うすあい》が映える。片手には、頑丈な、錆《さび》の出た、木鋏《きばさみ》を構えている。
この大剪刀《おおばさみ》が、もし空の樹の枝へでも引掛《ひっかか》っていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。盂蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気が籠《こも》るのであったから。
鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の日傭取《ひようとり》が、ものに驚き、泡を食って、遁出《にげだ》すのに、投出したものであった。
その次第はこうである。
はじめ二人は、磴《いしだん》から、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、鎖《とざ》さない木戸に近く、八分出来という石の塚を視《み》た。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、誂《あつら》えの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つの柄《え》は、その半面に対しても幸《さいわい》に鼎《かなえ》に似ない。鼎に似ると、烹《に》るも烙《や》くも、いずれ繊楚《かよわ》い人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかも好《よし》、玉を捧ぐる白珊瑚《しろさんご》の滑《なめら》かなる枝に見えた。
「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」
その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、
「道が悪いんですから、気をつけてね。」
わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻|呼吸《いき》を吹いた面《つら》を並べ、手を挙げ、胸を敲《たた》き、拳《こぶし》を振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、一時《ひといき》に四人、摺違《すれちが》いに木戸口へ、茶色になって湧《わ》いて出た。
その声も跫音《あしおと》も、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。
不意に打《ぶ》つかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、先頭《さきて》第一番の爺《じじい》が、面《つら》も、脛《すね》も、一縮みの皺《しわ》の中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、
「出ただええ、幽霊だあ。」
幽霊。
「おッさん、蛇、蝮《まむし》?」
お米は――幽霊と聞いたのに――ちょっと眉を顰《ひそ》めて、蛇、蝮を憂慮《きづか》った。
「そんげえなもんじゃねえだア。」
いかにも、そんげえなものには怯《おび》えまい、面魂、印半纏《しるしばんてん》も交って、布子のどんつく、半股引《はんももひき》、空脛《からずね》が入乱れ、屈竟《くっきょう》な日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、
「蜻蛉だあ。」
「幽霊蜻蛉ですだアい。」
と、冬の麦稈帽《むぎわらぼう》を被《かぶ》った、若いのが声を掛けた。
「蜻蛉なら、幽霊だって。」
お米は、莞爾《にっこり》して坂上りに、衣紋《えもん》のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。
巌《いわ》は鋭い。踏上る径《みち》は嶮《けわ》しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。
「何だい、今のは、あれは。」
「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」
「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、威《おど》かすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。」
「蛇や、蝮でさえなければ、蜥蜴《とかげ》が化けたって、そんなに可恐《こわ》いもんですか。」
「居るかい。」
「時々。」
「居るだろうな。」
「でも、この時節。」
「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒《まっくろ》な羽のひらひらする、繊《ほそ》く青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」
「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あの爺《じじ》い。」
その時であった。
「ああ。」
と、お米が声を立てると、
「酷《ひど》いこと、墓を。」
といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野を颯《さっ》と靡《なび》かした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。
向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじ搦《がら》みに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。
「初路さんを、――初路さんを。」
これが女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]の碑だったのである。
「茣蓙《ござ》にも、蓆《むしろ》にも包まないで、まるで裸にして。」
と気色《けしき》ばみつつ、且つ恥じたように耳朶《みみたぶ》を紅くした。
いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも咄嵯《とっさ》に印したのは同じである。台石から取って覆《か》えした、持扱いの荒くれた爪摺《つまず》れであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころ※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られて、日の隈《くま》幽《かすか》に、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷に搦《から》めた、さながら白身の窶《やつ》れた女を、反接|緊縛《きんばく》したに異ならぬ。
推察に難《かた》くない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。
が、心ない仕業をどうする。――お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠して好《よ》かった。花やかともいえよう、ものに激した挙動《ふるまい》の、このしっとりした女房の人柄に似ない捷《すばや》い仕種《しぐさ》の思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、背負揚《しょいあげ》を棄て、悠然と帯を巌《いわお》に解いて、あらわな長襦袢《ながじゅばん》ばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。
何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な読者《おかた》には弱る、が、言わねば卑怯《ひきょう》らしい、裸体《はだか》になります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。
――その墓へはまず詣でた――
引返《ひっかえ》して来たのであった。
辻町の何よりも早くここでしよう心は、立処《たちどころ》に縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目に曝《さら》すに忍びない。行《や》るとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。
さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、渠等《かれら》を納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面の皺《しわ》は伸びよう。また厨裡《くり》で心太《ところてん》を突くような跳梁権《ちょうりょうけん》を獲得していた、檀越《だんおつ》夫人の嫡女《ちゃくじょ》がここに居るのである。
栗柿を剥《む》く、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。
大剪刀《おおばさみ》が、あたかも蝙蝠《こうもり》の骨のように飛んでいた。
取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、衣《きぬ》を掛けたこのまま、留南奇《とめき》を燻《た》く、絵で見た伏籠《ふせご》を念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。驚破《すわ》、ほんのりと、暖い。芬《ぶん》と薫った、石の肌の軟《やわら》かさ。
思わず、
「あ。」
と声を立てたのであった。
「――おばけの蜻蛉、おじさん。」
「――何そんなものの居よう筈はない。」
胸傍《むなわき》の小さな痣《あざ》、この青い蘚《こけ》、そのお米の乳のあたりへ鋏《はさみ》が響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、屹《きっ》といった。
「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」
鋏は爽《さわやか》な音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。
「やあ、塗師屋《ぬしや》様、――ご新姐《しんぞ》。」
木戸から、寺男の皺面《しわづ
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