すざいしき》水絵具の立看板。」
「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」
「葬った土とは別なんだね。」
「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」
「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」
「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因《もと》で、あんな事になったんですもの。糸も紅糸《べにいと》からですわ。」
「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原因《もと》?……」
「まあ、何にも、ご存じない。」
「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年が経《た》つと、それっきりになる事もあるからね。」
 辻町は向直っていったのである。
「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可訝《おかし》いかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入の瓢《ひさご》は一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もお極《きま》りの貧のくるしみからだと思っていたよ。」
 また、事実そうであった。
「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のお邸《やしき》の女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》さん。」
「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」
「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]ですが、初路さん、お妾腹《めかけばら》だったんですって。それでも一粒種、いい月日の下《もと》に、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安易《らく》でないために、工場《こうば》通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮緬《ちりめん》細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に刺繍《ししゅう》をするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。」
「なるほど。」

       四

[#ここから4字下げ]
あれあれ見たか
  あれ見たか
…………………
[#ここで字下げ終わり]
「あれあれ見たか、あれ見たか、二つ蜻蛉《とんぼ》が草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。
 細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような地《じ》へ赤蜻蛉を二つ。」
 お米の二つ折る指がしなって、内端《うちは》に襟をおさえたのである。
「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の考案《かんがえ》で、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、嫉《ねた》み猜《そね》みから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。――その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、凄《すご》い勢《いきおい》で、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥を曝《さら》すんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄い囃《はや》して、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。」
(巻初に記して一粲《いっさん》に供した俗謡には、二三行、
[#ここから4字下げ]
…………………
…………………
[#ここで字下げ終わり]
 脱落があるらしい、お米が口誦《くしょう》を憚《はばか》ったからである。)
「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは衣服《きもの》を着ているでしょうか。
[#ここから4字下げ]
――人目しのぶと思えども
羽はうすもの隠されぬ――
[#ここで字下げ終わり]
 それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、
[#ここから4字下げ]
――世間、いなずま目が光る――
[#ここで字下げ終わり]
 ――恥を知らぬか、恥じないか――と皆《みんな》でわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、碧《あお》い目にまで、露呈《あらわ》に見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の牙形《はがた》が膚《はだ》に沁《し》みる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳たぶの赤くなる、もうそれが、砕けるのです、散るのです。
 遺書《かきおき》にも、あったそうです。――ああ、恥かしいと思ったばかりに――」
「察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の女性《にょしょう》たちは、拷問《ごうもん》の笞《しもと》、火水の責にも、断じて口を開かない時、ただ、衣《きぬ》を褫《うば》う、肌着を剥《は》ぐ、裸体にするというとともに、直ちに罪に落ちたというんだ。――そこへ掛けると……」
 辻町は、かくも心弱い人のために、西班牙《スペイン》セビイラの煙草工場のお転婆を羨《うらや》んだ。
 同時に、お米の母を思った。お京がもしその場に処したら、対手《あいて》の工女の顔に象棋盤《しょうぎばん》の目を切るかわりに、酢ながら心太《ところてん》を打《ぶ》ちまけたろう。
「そこへ掛けると平民の子はね。」
 辻町は、うっかりいった。
「だって、平民だって、人の前で。」
「いいえ。」
「ええ、どうせ私は平民の子ですから。」
 辻町は、その乳のわきの、青い若菜を、ふと思って、覚えず肩を縮めたのである。
「あやまった。いや、しかし、千五百石の女※[#くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]、昔ものがたり以上に、あわれにはかない。そうして清らかだ。」
「中将姫のようでしたって、白羽二重の上へ辷《すべ》ると、あの方、白い指が消えました。露が光るように、針の尖《さき》を伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、また縢《かが》って、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。――(私が傍《そば》に見ていました)って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、茄子《なす》の古漬のような口を開けて、老《い》い年で話すんです。その女だって、その臭い口で声を張って唱ったんだと思うと、聞いていて、口惜《くや》しい、睨《にら》んでやりたいようですわ。――でも自害をなさいました、後一年ばかり、一時《ひところ》はこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。
 ――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。」
「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。見聞《みきき》が狭い、知らないんだよ。土地の人は――そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。
 手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、当地《こちら》へ来がけに、歯が疼《いた》んで、馴染《なじみ》の歯科医《はいしゃ》へ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの麹町《こうじまち》の大通りから三宅坂《みやけざか》、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真直《まっすぐ》に、目的《めあて》の明石町《あかしちょう》までと饒舌《しゃべ》ってもいい加減の間、町|充満《いっぱい》、屋根一面、上下《うえした》、左右、縦も横も、微紅《うすあか》い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲《みなぎ》らして飛ぶのが、行違ったり、卍《まんじ》に舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜《ななめ》、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住《せんじゅ》、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。――明石町は昼の不知火《しらぬい》、隅田川の水の影が映ったよ。
 で、急いで明石町から引返《ひっかえ》して、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れて行《ゆ》く。歯科医《はいしゃ》で、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家の廂《ひさし》見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度を濃《こまや》かにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。
 何の事はない、見た処、東京の低い空を、淡紅《とき》一面の紗《しゃ》を張って、銀の霞に包んだようだ。聳立《そびえた》った、洋館、高い林、森なぞは、さながら、夕日の紅《べに》を巻いた白浪の上の巌《いわ》の島と云った態《かたち》だ。
 つい口へ出た。(蜻蛉が大層飛んでいますね。)歯医師《はいしゃ》が(はあ、早朝からですよ。)と云ったがね。その時は四時過ぎです。
 帰途《かえり》に、赤坂見附で、同じことを、運転手に云うと、(今は少くなりました。こんなもんじゃありません。今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を蔽《おお》うといいます紫雲英《げんげ》のように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。こんな経験ははじめてです。)と更《あらた》めて吃驚《びっくり》したように言うんだね。私も、その日ほど夥《おびただ》しいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会に漲《みなぎ》るのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、――うっかりじゃないか――この八九年以来なんだが、月はかわりません。きっと十月、中の十日から二十日《はつか》の間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌朝《あくるあさ》、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄い紅《あか》い霧をほぐして通る。
 ――この辺は、どうだろう。」
「え。」
 話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は緋葉《もみじ》の蔭にほんのりしていた。
「……もう晩《おそ》いんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参詣《おまいり》をしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。」
「一ツずつかね。」
「ひとツずつ?」
「ニツずつではなかったかい。」
「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」
「気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その刺繍《ししゅう》の姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。
 みだらだの、風儀を乱すの、恥を曝《さら》すのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング