た。ぶるぶると腕に力の漲《みなぎ》った逞《たくま》しいのが、
「よし、石も婉軟《やんわり》だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」
 というままに、頸《くび》の手拭が真額《まっこう》でピンと反《そ》ると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖の撓《しな》うを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方が掛《かか》り勝手がいいらしい。巌路《いわみち》へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺《いぶり》を加《く》れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行《ゆ》く。
「えらいぞ、権太、怪我をするな。」
 と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。
「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」
 と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。
「頓生菩提《とんしょうぼだい》。……小川へ流すか、燃しますべい。」
 そういって久助が、掻き集めた縄の屑《くず》を、一束ねに握って腰を擡《もた》げた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。
「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いて可《い》いんですよ。」
 この羽織が、黒塗の華頭窓に掛《かか》っていて、その窓際の机に向って、お米は細《ほっそ》りと坐っていた。冬の日は釣瓶《つるべ》おとしというより、梢《こずえ》の熟柿《じゅくし》を礫《つぶて》に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。
 こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸《えり》を差覗《さしのぞ》くようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯を視《み》た。
(――この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない――)
 信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝を傍《かたわら》に、硯箱《すずりばこ》を控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。
「――きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉――尾を銜《くわ》えたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。紅《べに》を引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。胡蘿蔔《にんじん》を繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。――」
 と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、唆《そその》かして口説いた。北辰妙見菩薩《ほくしんみょうけんぼさつ》を拝んで、客殿へ退《ひ》く間《ま》であったが。
 水をたっぷりと注《さ》して、ちょっと口で吸って、莟《つぼみ》の唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、誂《あつら》えたようである。
「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」
「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」
「失礼。」
 と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言を詫《わ》びつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、
「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」
 と、持ったのに、それにお米が手を添えて、
「着ますわ。」
「きられるかい、墓のを、そのまま。」
「おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺《しのぶずり》ですよ。」
 その優しさに、思わず胸がときめいて。
「肩をこっちへ。」
「まあ、おじさん。」
「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細《しさい》ない。」
「はい、……どうぞ。」
 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。
「私、こいしい、おっかさん。」
 前刻《さっき》から――辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある――ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、潜《ひそか》に悪心の萌《きざ》したのが、この時、色も、慾《よく》も何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。
「へい。お待遠でござりました。」
 片手に蝋燭《ろうそく》を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏《くり》から出た。
「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜《くわ》えるといいますから。」
 お米も、式台へもうかかった。
「へい、もう、刻限で、危気《あぶなげ》はござりましねえ、嘴太烏《ふと》も、嘴細烏《ほそ》も、千羽ヶ淵の森へ行《い》んで寝ました。」
 大城下は、目の下に、町の燈《ひ》は、柳にともれ、川に流るる。磴《いしだん》を下へ、谷の暗いように下りた。場末の五|燈《しょく》はまだ来ない。
 あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、
「あれ、蜻蛉が。」
 お米が膝をついて、手を合せ
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