けて、トントンと肩を叩いてやったもので。
「きゃっきゃっ、」とまた笑うて、横歩行《よこある》きにすらすらすら、で、居合わす、古女房の背《せな》をドンと啖《くら》わす。突然《いきなり》、年増《としま》の行火《あんか》の中へ、諸膝《もろひざ》を突込《つっこ》んで、けろりとして、娑婆《しゃば》を見物、という澄ました顔付で、当っている。
 露店中の愛嬌《あいきょう》もので、総籬《そうまがき》の柳縹《りゅうひょう》さん。
 すなわちまた、その伝で、大福|暖《あったか》いと、向う見ずに遣った処、手遊屋《おもちゃや》の婦《おんな》は、腰のまわりに火の気が無いので、膝が露出《むきだ》しに大道へ、茣蓙《ござ》の薄霜に間拍子《まびょうし》も無く並んだのである。
 橙色《だいだいいろ》の柳縹子、気の抜けた肩を窄《すぼ》めて、ト一つ、大きな達磨《だるま》を眼鏡でぎらり。
 婦《おんな》は澄ましてフッと吹く……カタリ……
 はッと頤《おとがい》を引く間も無く、カタカタカタと残らず落ちると、直ぐに、そのへりの赤い筒袖の細い雪で、一《ひと》ツ一《びと》ツ拾って並べる。
「堪《たま》らんですね、寒いですな、」
 と髯《ひげ》を捻《ひね》った。が、大きに照れた風が見える。
 斜違《はすッかい》にこれを視《なが》めて、前歯の金をニヤニヤと笑ったのは、総髪《そうがみ》の大きな頭に、黒の中山高《ちゅうやまたか》を堅く嵌《は》めた、色の赤い、額に畝々《うねうね》と筋のある、頬骨の高い、大顔の役人風。迫った太い眉に、大《でっか》い眼鏡で、胡麻塩髯《ごましおひげ》を貯えた、頤《おとがい》の尖《とが》った、背のずんぐりと高いのが、絣《かすり》の綿入羽織を長く着て、霜降のめりやすを太く着込んだ巌丈《がんじょう》な腕を、客商売とて袖口へ引込《ひっこ》めた、その手に一条の竹の鞭《むち》を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、備後《びんご》は尾ノ道、肥後《ひご》は熊本の刻煙草《きざみたばこ》を指示《さししめ》す……
「内務省は煙草専売局、印紙|御貼用済《ごちょうようずみ》。味は至極|可《え》えで、喫《の》んで見た上で買いなさい。大阪は安井銀行、第三蔵庫の担保品。今度《このたび》、同銀行蔵掃除について払下げに相成ったを、当商会において一手販売をする、抵当流れの安価な煙草じゃ、喫んで芳《かんばし》ゅう、香味《こうみ》、口中に遍《あまね》うしてしかしてそのいささかも脂《やに》が無い。私《わし》は痰持《たんもち》じゃが、」
 と空咳《からせき》を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込め、
「この煙草を用いてから、とんと悩みを忘れた。がじゃ、荒くとも脂がありとも、ただ強いのを望むという人には決してこの煙草は向かぬぞ。香味あって脂が無い、抵当流れの刻《きざみ》はどうじゃ。」
 と太い声して、ちと充血した大きな瞳《ひとみ》をぎょろりと遣る。その風采《ふうさい》、高利を借りた覚えがあると、天窓《あまた》から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。
 店の透いた時は、そこらの小児《こども》をつかまえて、
「あ、然《す》じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺《しわ》を寄せて、髯の上を撫《な》で下げ撫で下げ、滑稽《おど》けた話をして喜ばせる。その小父《おじ》さんが、
「いや、若いもの。」
 という顔色《がんしょく》で、竹の鞭を、ト笏《しゃく》に取って、尖《さき》を握って捻向《ねじむ》きながら、帽子の下に暗い額で、髯の白いに、金が顕《あらわ》な北叟笑《ほくそえみ》。
 附穂《つぎほ》なさに振返った技師は、これを知ってなお照れた。
「今に御覧《ごろう》じろ。」
 と遠灯《とおび》の目《ま》ばたきをしながら、揃えた膝をむくむくと揺《ゆす》って、
「何て、寒いでしょう。おお寒い。」
 と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭《よりかか》る、……体の重量《おもみ》が、他愛ない、暖簾《のれん》の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏《はんてん》の上から触っても知れた。
 げっそり懐手《ふところで》をしてちょいとも出さない、すらりと下った左の、その袖は、何も支えぬ、婦《おんな》は片手が無いのであった。

       九

 もうこの時分には、そちこちで、徐々《そろそろ》店を片附けはじめる。まだ九時ちっと廻ったばかりだけれども、師走の宵は、夏の頃の十二時過ぎより帰途《かえり》を急ぐ。
 で、処々、張出しが除《と》れる、傘《からかさ》が窄《すぼ》まる、その上に冷《つめた》い星が光を放って、ふっふっと洋燈《ランプ》が消える。突張《つっぱ》りの白木《しらき》の柱が、すくすくと夜風に細って、積んだ棚が、がたがた崩れる。その中へ、炬燵《こたつ》が化けて歩行《ある》き出した体《てい》に、むっくりと、大きな風呂敷包を背負《しょ》った形が糶上《せりあが》る。消え残った灯《あかり》の前に、霜に焼けた脚が赤く見える。
 中には荷車が迎《むかい》に来る、自転車を引出すのもある。年寄には孫、女房にはその亭主が、どの店にも一人二人、人数が殖《ふ》えるのは、よりよりに家から片附けに来る手伝、……とそればかりでは無い。思い思いに気の合ったのが、帰際《かえりぎわ》の世間話、景気の沙汰《さた》が主なるもので、
「相変らず不可《いけ》ますまい、そう云っちゃ失礼ですが。」
「いえ、思ったより、昨夜《ゆうべ》よりはちっと増《まし》ですよ。」
「また私《わたくし》どもと来た日にゃ、お話になりません。」
「御多分には漏れませんな。」
「もう休もうかと思いますがね、それでも出つけますとね、一晩でも何だか皆さんの顔を見ないじゃ気寂《きさみ》しくって寝られません。……無駄と知りながら出て来ます、へい、油費《あぶらづい》えでさ。」
 と一処《ひとところ》に団《かた》まるから、どの店も敷物の色ばかりで、枯野に乾《ほ》した襁褓《むつき》の光景《ありさま》、七星の天暗くして、幹枝盤上《かんしはんじょう》に霜深し。
 まだ突立《つった》ったままで、誰も人の立たぬ店の寂《さみ》しい灯先《ひさき》に、長煙草《ながぎせる》を、と横に取って細いぼろ切れを引掛《ひっか》けて、のろのろと取ったり引いたり、脂通《やにどお》しの針線《はりがね》に黒く畝《うね》って搦《から》むのが、かかる折から、歯磨屋《はみがきや》の木蛇の運動より凄《すご》いのであった。
 時に、手遊屋《おもちゃや》の冷《ひやや》かに艶《えん》なのは、
「寒い。」と技師が寄凭《よりかか》って、片手の無いのに慄然《ぞっ》としたらしいその途端に、吹矢筒を密《そっ》と置いて、ただそれだけ使う、右の手を、すっと内懐《うちぶところ》へ入れると、繻子《しゅす》の帯がきりりと動いた。そのまま、茄子《なす》の挫《ひしゃ》げたような、褪《あ》せたが、紫色の小さな懐炉《かいろ》を取って、黙って衝《つ》と技師の胸に差出したのである。
 寒くば貸そう、というのであろう。……
 挙動《しぐさ》の唐突《だしぬけ》なその上に、またちらりと見た、緋鹿子《ひがのこ》の筒袖《つつッぽ》の細いへりが、無い方の腕の切口に、べとりと血が染《にじ》んだ時の状《さま》を目前《めのまえ》に浮べて、ぎょっとした。
 どうやら、片手無い、その切口が、茶袋の口を糸でしめたように想われるのである。
「それには及ばんですよ、ええ、何の、御新姐《ごしんぞ》。」と面啖《めんくら》って我知らず口走って、ニコチンの毒を説く時のような真面目《まじめ》な態度になって、衣兜《かくし》に手を突込《つっこ》んで、肩をもそもそと揺《ゆす》って、筒服《ずぼん》の膝を不状《ぶざま》に膨らましたなりで、のそりと立上ったが、忽《たちま》ちキリキリとした声を出した。
「嫁娶《よめどり》々々!」
 長提灯《ながぢょうちん》の新しい影で、すっすと、真新しい足袋を照らして、紺地へ朱で、日の出を染めた、印半纏《しるしばんてん》の揃衣《そろい》を着たのが二十四五人、前途《ゆくて》に松原があるように、背《せな》のその日の出を揃えて、線路際を静《しずか》に練る……
 結構そうなお爺さんの黒紋着《くろもんつき》、意地の悪そうな婆さんの黄色い襟も交《まじ》ったが、男女《なんにょ》合わせて十四五人、いずれも俥《くるま》で、星も晴々と母衣《ほろ》を刎《は》ねた、中に一台、母衣を懸けたのが当の夜《よ》の縁女であろう。
 黒小袖の肩を円く、但し引緊《ひきし》めるばかり両袖で胸を抱いた、真白《まっしろ》な襟を長く、のめるように俯向《うつむ》いて、今時は珍らしい、朱鷺色《ときいろ》の角隠《つのかくし》に花笄《はなこうがい》、櫛《くし》ばかりでも頭《つむり》は重そう。ちらりと紅《くれない》の透《とお》る、白襟を襲《かさ》ねた端に、一筋キラキラと時計の黄金鎖《きんぐさり》が輝いた。
 上が身を堅く花嫁の重いほど、乗せた車夫は始末のならぬ容体《ようだい》なり。妙な処へ楫《かじ》を極《き》めて、曳据《ひきす》えるのが、がくりとなって、ぐるぐると磨骨《みがきぼね》の波を打つ。

       十

 露店の目は、言合わせたように、きょときょとと夢に辿《たど》る、この桃の下路《したみち》を行《ゆ》くような行列に集まった。
 婦《おんな》もちょいと振向いて、(大道|商人《あきんど》は、いずれも、電車を背後《うしろ》にしている)蓬莱《ほうらい》を額に飾った、その石のような姿を見たが、衝《つ》と向《むき》をかえて、そこへ出した懐炉《かいろ》に手を触って、上手に、片手でカチンと開けて、熟《じっ》と俯向《うつむ》いて、灰を吹きつつ、
「無駄だねえ。」
 と清《すずし》い声、冷《ひやや》かなものであった。
「弘法大師御夢想のお灸《きゅう》であすソ、利きますソ。」
 と寝惚《ねぼ》けたように云うと斉《ひと》しく、これも嫁入を恍惚《うっとり》視《なが》めて、あたかもその前に立合わせた、つい居廻りで湯帰りらしい、島田の乱れた、濡手拭《ぬれてぬぐい》を下げた娘《しんぞ》の裾《すそ》へ、やにわに一束の線香を押着《おッつ》けたのは、あるが中にも、幻のような坊様で。
 つくねんとして、一人、影法師のように、びょろりとした黒紬《くろつむぎ》の間伸びた被布《ひふ》を着て、白髪《しらが》の毛入道に、ぐたりとした真綿の帽子。扁平《ひらった》く、薄く、しかも大ぶりな耳へ垂らして、環珠数《わじゅず》を掛けた、鼻の長い、頤《おとがい》のこけた、小鼻と目が窪んで、飛出した形の八の字眉。大きな口の下唇を反らして、かッくりと抜衣紋《ぬきえもん》。長々と力なげに手を伸ばして、かじかんだ膝を抱えていたのが、フト思出した途端に、居合わせた娘の姿を、男とも女とも弁別《わさま》える隙《ひま》なく、馴《な》れてぐんなりと手の伸びるままに、細々と煙の立つ、その線香を押着《おッつ》けたものであろう。
 この坊様《ぼんさま》は、人さえ見ると、向脛《むこうずね》なり踵《かかと》なり、肩なり背なり、燻《くす》ぼった鼻紙を当てて、その上から線香を押当てながら、
「おだだ、おだだ、だだだぶだぶ、」と、歯の無い口でむぐむぐと唱えて、
「それ、利くであしょ、ここで点《す》えるは施行《せぎょう》じゃいの。艾《もぐさ》入《い》らずであす。熱うもあすまいがの。それ利くであしょ。利いたりゃ、利いたら、しょなしょなと消しておいて、また使うであすソ。それ利くであしょ。」と嘗《な》め廻す体《てい》に、足許《あしもと》なんぞじろじろと見て商う。高野山秘法の名灸。
 やにわに長い手を伸ばされて、はっと後しざりをする、娘の駒下駄《こまげた》、靴やら冷飯《ひやめし》やら、つい目が疎いかして見分けも無い、退《の》く端の褄《つま》を、ぐいと引いて、
「御夢想のお灸であすソ、施行じゃいの。」
 と鯰《なまず》が這うように黒被布の背を乗出して、じりじりと灸を押着《おッつ》けたもの、堪《たま》ろうか。
「あれえ、」
 と叫んで、ついと退《の》く、ト脛《はぎ》が白く、横町
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