《おっか》けた亭主が、値が出来ないで舌打をして引返す……煙草入《たばこいれ》に引懸《ひっかか》っただぼ鯊《はぜ》を、鳥の毛の采配《さいはい》で釣ろうと構えて、ストンと外した玉屋の爺様《じいさま》が、餌箱《えさばこ》を検《しら》べる体《てい》に、財布を覗《のぞ》いて鬱《ふさ》ぎ込む、歯磨屋《はみがきや》の卓子《テエブル》の上に、お試用《ためし》に掬出《すくいだ》した粉が白く散って、売るものの鰌髯《どじょうひげ》にも薄《うっす》り霜を置く――初夜過ぎになると、その一時《ひととき》々々、大道店の灯筋《あかりすじ》を、霧で押伏《おっぷ》せらるる間が次第に間近になって、盛返す景気がその毎《たび》に、遅く重っくるしくなって来る。
 ずらりと見渡した皆がしょんぼりする。
 勿論、電燈の前、瓦斯の背後《うしろ》のも、寝る前の起居《たちい》が忙《せわ》しい。
 分けても、真白《まっしろ》な油紙《あぶらっかみ》の上へ、見た目も寒い、千六本を心太《ところてん》のように引散《ひっち》らして、ずぶ濡《ぬれ》の露が、途切れ途切れにぽたぽたと足を打って、溝縁《みぞぶち》に凍りついた大根剥《だいこんむき》の忰《せがれ》が、今度は堪《たま》らなそうに、凍《かじか》んだ両手をぶるぶると唇へ押当てて、貧乏揺《びんぼうゆる》ぎを忙《せわ》しくしながら、
「あ、あ、」
 とまた大欠伸《おおあくび》をして、むらむらと白い息を吹出すと、筒抜けた大声で、
「大福が食いてえなッ。」

       六

「大福餅が食べたいとさ、は、は、は、」
 と直きその傍《そば》に店を出した、二分心《にぶしん》の下で手許《てもと》暗く、小楊枝《こようじ》を削っていた、人柄なだけ、可憐《いとし》らしい女隠居が、黒い頭巾《ずきん》の中から、隣を振向いて、掠《かす》れ掠れ笑って言う。
 その隣の露店は、京染|正紺請合《しょうこんうけあい》とある足袋の裏を白く飜《かえ》して、ほしほしと並べた三十ぐらいの女房《にょうぼ》で、中がちょいと隔っただけ、三徳用の言った事が大道でぼやけて分らず……但し吃驚《びっくり》するほどの大音であったので、耳を立てて聞合わせたものであった。
 会得《えとく》が行《ゆ》くとさも無い事だけ、おかしくなったものらしい。
「大福を……ほほほ、」と笑う。
 とその隣が古本屋で、行火《あんか》の上へ、髯《ひげ》の伸びた痩《や》せた頤《おとがい》を乗せて、平たく蹲《うずくま》った病人らしい陰気な男が、釣込まれたやら、
「ふふふ、」
 と寂《さみ》しく笑う。
 続いたのが、例の高張《たかはり》を揚げた威勢の可《い》い、水菓子屋、向顱巻《むこうはちまち》の結び目を、山から飛んで来た、と押立《おった》てたのが、仰向けに反《そり》を打って、呵々《からから》と笑出す。次へ、それから、引続いて――一品料理の天幕張《テントばり》の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと笑《わらい》を揺《ゆす》る。年内の御重宝《ごちょうほう》九星売が、恵方《えほう》の方へ突伏《つっぷ》して、けたけたと堪《たま》らなそうに噴飯《ふきだ》したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋《はみがきや》が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側|一条《ひとすじ》、夜が鳴って、哄《どっ》と云う。時ならぬに、木《こ》の葉が散って、霧の海に不知火《しらぬい》と見える灯《ともしび》の間を白く飛ぶ。
 なごりに煎豆屋《いりまめや》が、かッと笑う、と遠くで凄《すさ》まじく犬が吠《ほ》えた。
 軒の辺《あたり》を通魔《とおりま》がしたのであろう。
 北へも響いて、町尽《まちはずれ》の方へワッと抜けた。
 時に片頬笑《かたほえ》みさえ、口許《くちもと》に莞爾《にっこり》ともしない艶《えん》なのが、露店を守って一人居た。
 縦通《たてどおり》から横通りへ、電車の交叉点《こうさてん》を、その町尽れの方へ下《さが》ると、人も店も、灯《ひ》の影も薄く歯の抜けたような、間々を冷い風が渡る癖に、店を一ツ一ツ一重《ひとえ》ながら、茫《ぼう》と渦を巻いたような霧で包む。同じ燻《くす》ぶった洋燈《ランプ》も、人の目鼻立ち、眉も、青、赤、鼠色の地《じ》の敷物ながら、さながら鶏卵《たまご》の裡《うち》のように、渾沌《こんとん》として、ふうわり街燈の薄い影に映る。が、枯れた柳の細い枝は、幹に行燈《あんどう》を点《つ》けられたより、かえってこの中に、処々すっきりと、星に蒼《あお》く、風に白い。
 その根に、茣蓙《ござ》を一枚の店に坐ったのが、件《くだん》の婦《おんな》で。
 年紀《とし》は六七……三十にまず近い。姿も顔も窶《やつ》れたから、ちと老けて見えるのであろうも知れぬ。綿らしいが、銘仙縞《めいせんじま》の羽織を、なよなよとある肩に細く着て、同じ縞物の膝を薄く、無地ほどに細い縞の、これだけはお召らしいが、透切《すきぎ》れのした前垂《まえだれ》を〆《し》めて、昼夜帯の胸ばかり、浅葱《あさぎ》の鹿子《かのこ》の下〆《したじめ》なりに、乳の下あたり膨《ふっく》りとしたのは、鼻紙も財布も一所に突込《つっこ》んだものらしい。
 ざっと一昔は風情だった、肩掛というのを四つばかりに畳んで敷いた。それを、褄《つま》は深いほど玉は冷たそうな、膝の上へ掛けたら、と思うが、察するに上へは出せぬ寸断《ずたずた》の継填《つぎはぎ》らしい。火鉢も無ければ、行火《あんか》もなしに、霜の素膚《すはだ》は堪えられまい。
 黒繻子《くろじゅす》の襟も白く透く。
 油気《あぶらけ》も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、艶《つや》のある薄手な丸髷《まるまげ》がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと捲《ま》き込んだ袂《たもと》の下に、利休形《りきゅうがた》の煙草入《たばこいれ》の、裏の緋塩瀬《ひしおぜ》ばかりが色めく、がそれも褪《あ》せた。
 生際《はえぎわ》の曇った影が、瞼《まぶた》へ映《さ》して、面長《おもなが》なが、さして瘠《や》せても見えぬ。鼻筋のすっと通ったを、横に掠《かす》めて後毛《おくれげ》をさらりと掛けつつ、ものうげに払いもせず……切《きれ》の長い、睫《まつげ》の濃いのを伏目《ふしめ》になって、上気して乾くらしい唇に、吹矢の筒を、ちょいと含んで、片手で持添えた雪のような肱《ひじ》を搦《から》む、唐縮緬《とうちりめん》の筒袖のへりを取った、継合わせもののその、緋鹿子《ひがのこ》の媚《なまめ》かしさ。

       七

 三枚ばかり附木《つけぎ》の表へ、(一《ひと》くみ)も仮名で書き、(二せん)も仮名で記して、前に並べて、きざ柿の熟したのが、こつこつと揃ったような、昔は螺《たにし》が尼になる、これは紅茸《べにたけ》の悟《さとり》を開いて、ころりと参った張子《はりこ》の達磨《だるま》。
 目ばかり黒い、けばけばしく真赤《まっか》な禅入《ぜんにゅう》を、木兎引《ずくひき》の木兎、で三寸ばかりの天目台《てんもくだい》、すくすくとある上へ、大は小児《こども》の握拳《にぎりこぶし》、小さいのは団栗《どんぐり》ぐらいな処まで、ずらりと乗せたのを、その俯目《ふしめ》に、ト狙《ねら》いながら、件《くだん》の吹矢筒で、フッ。
 カタリといって、発奮《はずみ》もなく引《ひっ》くりかえって、軽く転がる。その次のをフッ、カタリと飜《かえ》る。続いてフッ、カタリと下へ。フッフッ、カタカタカタと毛を吹くばかりの呼吸《いき》づかいに連れて、五つ七つたちどころに、パッパッと石鹸玉《シャボンだま》が消えるように、上手にでんぐり、くるりと落ちる。
 落ちると、片端から一ツ一ツ、順々にまた並べて、初手《しょて》からフッと吹いて、カタリといわせる。……同じ事を、絶えず休まずに繰返して、この玩弄物《おもちゃ》を売るのであるが、玉章《ふみ》もなし口上もなしで、ツンとしたように黙っているので。
 霧の中に笑《わらい》の虹《にじ》が、溌《ぱっ》と渡った時も、独り莞爾《にっこり》ともせず、傍目《わきめ》も触《ふ》らず、同じようにフッと吹く。
 カタリと転がる。
「大福、大福、大福かい。」
 とちと粘って訛《なまり》のある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂《ひび》を入《い》らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の婦《おんな》の背後《うしろ》へ、ぬっと、鼠の中折《なかおれ》を目深《まぶか》に、領首《えりくび》を覗《のぞ》いて、橙色《だいだいいろ》の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、
「大福餅、暖《あったか》い!」
 また疳走《かんばし》った声の下、ちょいと蹲《しゃが》む、と疾《はや》い事、筒服《ずぼん》の膝をとんと揃えて、横から当って、婦《おんな》の前垂《まえだれ》に附着《くッつ》くや否や、両方の衣兜《かくし》へ両手を突込《つっこ》んで、四角い肩して、一ふり、ぐいと首を振ると、ぴんと反らした鼻の下の髯《ひげ》とともに、砂除《すなよ》けの素通し、ちょんぼりした可愛い目をくるりと遣《や》ったが、ひょんな顔。
 ……というものは、その、
「……暖《あったか》い!……」を機会《きっかけ》に、行火《あんか》の箱火鉢の蒲団《ふとん》の下へ、潜込《もぐりこ》ましたと早合点《はやがってん》の膝小僧が、すぽりと気が抜けて、二ツ、ちょこなんと揃って、灯《ともしび》に照れたからである。
 橙背広のこの紳士は、通り掛《がか》りの一杯機嫌の素見客《ぞめき》でも何でもない。冷かし数の子の数には漏れず、格子から降るという長い煙草《きせる》に縁のある、煙草《たばこ》の脂留《やにどめ》、新発明|螺旋仕懸《らせんじかけ》ニッケル製の、巻莨《まきたばこ》の吸口を売る、気軽な人物。
 自から称して技師と云う。
 で、衆を立たせて、使用法を弁ずる時は、こんな軽々しい態度のものではない。
 下目づかいに、晃々《きらきら》と眼鏡を光らせ、額で睨《にら》んで、帽子を目深《まぶか》に、さも歴々が忍びの体《てい》。冷々然として落着き澄まして、咳《しわぶき》さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、一吸《ひとすい》の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの蒼光《あおびかり》に翳《かざ》して、屹《き》と試験管を示す時のごときは、何某《なにがし》の教授が理化学の講座へ立揚《たちあが》ったごとく、風采《ふうさい》四辺《あたり》を払う。
 そこで、公衆は、ただ僅《わずか》に硝子《がらす》の管へ煙草を吹込んで、びくびくと遣《や》ると水が濁るばかりだけれども、技師の態度と、その口上のぱきぱきとするのに、ニコチンの毒の恐るべきを知って、戦慄《せんりつ》に及んで、五割引が盛《さかん》に売れる。
 なかなかどうして、歯科散《しかさん》が試験薬を用いて、立合《たちあい》の口中黄色い歯から拭取《ふきと》った口塩《くちしお》から、たちどころに、黴菌《ばいきん》を躍らして見せるどころの比ではない。
 よく売れるから、益々《ますます》得意で、澄まし返って説明する。
 が、夜がやや深く、人影の薄くなったこうした時が、技師大得意の節で。今まで嚔《くしゃみ》を堪《こら》えたように、むずむずと身震いを一つすると、固くなっていた卓子《テエブル》の前から、早くもがらりと体《たい》を砕いて、飛上るように衝《つ》と腰を軽く、突然《いきなり》ひょいと隣のおでん屋へ入って、煮込を一串《ひとくし》引攫《ひっさら》う。
 こいつを、フッフッと吹きながら、すぺりと古道具屋の天窓《あたま》を撫《な》でるかと思うと、次へ飛んで、あの涅槃《ねはん》に入ったような、風除葛籠《かざよけつづら》をぐらぐら揺《ゆす》ぶる。

       八

 その時きゃっきゃっと高笑《たかわらい》、靴をぱかぱかと傍《わき》へ外《そ》れて、どの店と見当を着けるでも無く、脊を屈《かが》めて蹲《うずくま》った婆さんの背後《うしろ》へちょいと踞《しゃが》んで、
「寒いですね。」
 と声を掛
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