の暗《やみ》に消えた。
坊様《ぼんさま》、眉も綿頭巾《わたずきん》も、一緒くたに天を仰いで、長い顔で、きょとんとした。
「や、いささかお灸でしたね、きゃッ、きゃッ、」
と笑うて、技師はこれを機会《きっかけ》に、殷鑑《いんかん》遠からず、と少しく窘《すく》んで、浮足の靴ポカポカ、ばらばらと乱れた露店の暗い方を。……
さてここに、膃肭臍《おっとせい》を鬻《ひさ》ぐ一漢子《いっかんし》!
板のごとくに硬《こわ》い、黒の筒袖の長外套《なががいとう》を、痩《や》せた身体《からだ》に、爪尖《つまさき》まで引掛《ひっか》けて、耳のあたりに襟を立てた。帽子は被《かぶ》らず、頭髪《かみ》を蓬々《ぼうぼう》と抓《つか》み棄《す》てたが、目鼻立の凜々《りり》しい、頬は窶《やつ》れたが、屈強な壮佼《わかもの》。
渋色の逞《たくま》しき手に、赤錆《あかさび》ついた大出刃を不器用に引握《ひんにぎ》って、裸体《はだか》の婦《おんな》の胴中《どうなか》を切放して燻《いぶ》したような、赤肉と黒の皮と、ずたずたに、血筋を縢《かが》った中に、骨の薄く見える、やがて一抱《ひとかかえ》もあろう……頭と尾ごと、丸漬《まるづけ》にした膃肭臍《おっとせい》を三頭。縦に、横に、仰向けに、胴油紙《とうゆがみ》の上に乗せた。
正面《まむき》の肋《あばら》のあたりを、庖丁《ほうちょう》の背でびたびたと叩いて、
「世間ではですわ、めっとせいはあるが、膃肭臍は無い、と云うたりするものがあるですが、めっとせいにも膃肭臍にも、ほんとのもんは少いですが。」
無骨な口で、
「船に乗っとるもんでもが……現在、膃肭臍を漁《と》った処で、それが膃肭臍、めっとせいという区別は着かんもんで。
世間で云うめっとせいというから雌でしょう、勿論、雌もあれば、雄もあるですが。
どれが雌だか、雄だか、黒人《くろうと》にも分らんで、ただこの前歯を、」
と云って推重《おしかさ》なった中から、ぐいと、犬の顔のような真黒《まっくろ》なのを擡《もた》げると、陰干の臭《におい》が芬《ぷん》として、内へ反った、しゃくんだような、霜柱のごとき長い歯を、あぐりと剥《む》く。
「この前歯の処ウを、上下《うえした》噛合《かみあ》わせて、一寸の隙《すき》も無いのウを、雄や、(と云うのが北国《ほっこく》辺のものらしい)と云うですが、一分一寸ですから、開《あ》いていても、塞《ふさ》いでいても分らんのうです。
私は弁舌は拙《まず》いですけれども、膃肭臍は確《たしか》です。膃肭臍というものは、やたらむたらにあるものではない。東京府下にも何十人売るものがあるかは知らんですがね、やたらむたらあるもんか。」
と、何かさも不平に堪えず、向腹《むかっぱら》を立てたように言いながら、大出刃の尖《さき》で、繊維を掬《すく》って、一角《ウニコール》のごとく、薄くねっとりと肉を剥《は》がすのが、――遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い長提灯《ながぢょうちん》の影にひくひくと動く。
その紫がかった黒いのを、若々しい口を尖《とが》らし、むしゃむしゃと噛んで、
「二頭がのは売ってしもうたですが、まだ一頭、脳味噌もあるですが。脳味噌は脳病に利くンのですが、膃肭臍の効能は、誰でも知っている事で言うがものはない。
疑わずにお買い下さい、まだ確《たしか》な証拠というたら、後脚の爪ですが、」
ト大様に視《なが》めて、出刃を逆手《さかて》に、面倒臭い、一度に間に合わしょう、と狙って、ずるりと後脚を擡《もた》げる、藻掻《もが》いた形の、水掻《みずかき》の中に、空《くう》を掴《つか》んだ爪がある。
霜風は蝋燭《ろうそく》をはたはたと揺《ゆす》る、遠洋と書いたその目標《めじるし》から、濛々《もうもう》と洋《わだつみ》の気が虚空《こくう》に被《かぶ》さる。
里心が着くかして、寂《さみ》しく二人ばかり立った客が、あとしざりになって……やがて、はらはらと急いで散った。
出刃を落した時、赫《かッ》と顔の色に赤味を帯びて、真鍮《しんちゅう》の鉈豆煙草《なたまめぎせる》の、真中《まんなか》をむずと握って、糸切歯で噛むがごとく、引啣《ひっくわ》えて、
「うむ、」
と、なぜか呻《うな》る。
処へ、ふわふわと橙色《だいだいいろ》が露《あら》われた。脂留《やにどめ》の例の技師で。
「どうですか、膃肭臍屋さん。」
「いや、」
とただ言ったばかり、不愛想。
技師は親しげに擦|寄《よ》って、
「昨夜は、飛んだ事でしたな……」
「お話になりません。」
「一体何の事ですか、」
「何《なに》やいうて、彼《か》やいうて、まるでお話しにならんのですが、誰が何を見違えたやら、突然《いきなり》しらべに来て、膃肭臍の中を捜すんですぞ、真白《まっしろ》な女の片腕があると言うて。」……
[#地から1字上げ]明治四十四(一九一一)年二月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店
1941(昭和16)年6月30日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年1月30日作成
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