胸を圧《お》した。
 トはっとした体《てい》で、よろよろと退《しさ》ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋《すが》るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
「貴方《あなた》を、伴侶《つれ》、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
 紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。不可《いけ》ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、妻《さい》を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出《ひっぱりだ》して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」

       二十四

「いいえ、御心配には及びません。」
 松崎は先んじられた……そして美しい女《ひと》は、淵《ふち》の測り知るべからざる水底《みなそこ》の深き瞳を、鋭く紳士の面《おもて》に流して
「私は確《たしか》です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹《ごれいまい》のお稲さんのために。」
 と、爽《さわや》かに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、
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