云った。
 その間《うち》も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。
「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」
 雲にも、人にも、松崎は胸が轟《とどろ》く。
「待ってて下さい。」
 と見返りもしないで、
「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児《こ》だから。」
「だって、言ったって、芝居だって、同一《おなじ》なんですもの、見ていらっしゃい。」
「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可《いけな》い。」
 お稲は黙って頭《かぶり》を掉《ふ》る。
「まあ、強情だわねえ。」
「強情ではござりませぬ。」
 と思いがけず幕の中から、皺《しわ》がれた声を掛けた。美しい女《ひと》は瞳を注いだ、松崎は衝《つ》と踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――紅蓮《ぐれん》大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一《おなじ》であった。
「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女《あなた》がお急ぎであらばの、衣裳《いしょう》をお返し申すが可《い》い。」
 と半ば舞台に指揮《さしず》をする。
「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです
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