―口惜《くや》しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃《ねぞろ》え自慢で緊《し》めたばかりの元結《もっとい》が、プッツリ切れ、背中へ音がして颯《さっ》と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。
 でも、髪結さんは、あの娘《こ》の髪の事ばかり言って惜《おし》がってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟《やわらか》な、艶《つや》の可《い》い髪は見た事がないってね、――死骸《しがい》を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」
「ああ……聞いても惜《おし》い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」
 春狐は思わず、詰《なじ》るがごとく急込《せきこ》んで火鉢を敲《たた》いた。
「ねえ、私にだって分りませんわ。」
「で、どうしたんだい。」
「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出《かりだ》すの、手が掛《かか》るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。
 賺《すか》しても、叱っても。
 
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