切りフイと居なくなった。……
 いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。

       十

「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
 少々舞台に間が明いて、魅《つま》まれたなりの饂飩小僧《うどんこぞう》は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
 幕の端《はじ》から、以前の青月代《あおさかやき》が、黒坊《くろんぼ》の気か、俯向《うつむ》けに仮髪《かつら》ばかりを覗《のぞ》かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視《なが》められる。
「まだじゃねえか、まだお前、その行燈《あんどん》がかがみにならねえよ……科《しぐさ》が抜けてるぜ、早く演《や》んねえな。」
 と云って、すぽりと引込《ひっこ》む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹《でこぼこ》する蹈台《ふみだい》の腰を乗出す。
 同じ思いか、面影《おもかげ》も映しそうに、美しい女《ひと》は凝《じっ》と視《み》た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身《そりみ》ながらぐったりと凭掛《よりかか》った、杖《ステッキ》の柄を手袋の尖で
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