胸を圧《お》した。
トはっとした体《てい》で、よろよろと退《しさ》ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋《すが》るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
「貴方《あなた》を、伴侶《つれ》、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。不可《いけ》ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、妻《さい》を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出《ひっぱりだ》して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」
二十四
「いいえ、御心配には及びません。」
松崎は先んじられた……そして美しい女《ひと》は、淵《ふち》の測り知るべからざる水底《みなそこ》の深き瞳を、鋭く紳士の面《おもて》に流して
「私は確《たしか》です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹《ごれいまい》のお稲さんのために。」
と、爽《さわや》かに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、何だ、何だ。」
と喘《あえ》ぐ、
「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己《ちかづき》になっていたばかりなんです。」
美しい女《ひと》は、そんなものは、と打棄《うっちゃ》る風情で、屹《き》とまた幕に向って立直った。
「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。豪《えら》いのね。でも悪魔、変化《へんげ》ばかりではない、人間にも神通《じんずう》があります。私が問うたら、お前さんは、去《い》って聞けと言いましたね。
私は即座に、その二度|添《ぞい》、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……
お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」
幕の内で、
「朧気《おぼろげ》じゃ、冥土《めいど》の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」
「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた玩弄《おもちゃ》は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、旭《あさひ》に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。
お稲さんの事を聞かされました。玩弄《おもちゃ》は取替えられたんです、花は古い手に摘《つま》れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。
贅沢《ぜいたく》です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば可《い》い、そのために恋人が、そうまでにして生命《いのち》を棄てたと思ったら、自分も死ねば可《い》いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。
力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人|極《ぎ》めにして、その上に、新妻《にいづま》を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々《しゃあしゃあ》として、髪を光らしながら、鰌髭《どじょうひげ》の生えた口で言うのは何事でしょうね。」
「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」
紳士は肩で息をした、その手は松崎に縋《すが》っている。……
「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多《いくたり》居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。
夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、皆《みんな》、女の仇《かたき》です。
幕の中の人、お聞きなさい。
二度添にされた後妻はね……それから夫の言《ことば》に、わざと喜んで従いました。
涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。
そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、少《わか》い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも彼《か》でも涙を流すに極《きま》っています。
私は精々《せっせ》と出入《ではい》りしました。先方《さき》からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに極《きま》っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」
電《いなびかり》が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木《しゅもく》橋、川を射て、橋に輝くか、と衝《つ》と町を徹《と
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