陽炎座
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)帽子《あたま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一枚|小袖《こそで》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよう》
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       一

「ここだ、この音なんだよ。」
 帽子《あたま》も靴も艶々《てらてら》と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の利《き》けものといった風采《ふう》。一ツ、容子《ようす》は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴《つれ》の、――すらりとして派手に鮮麗《あざやか》な中に、扱帯《しごき》の結んだ端、羽織の裏、褄《つま》はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々《ところどころ》に薄《うっす》りと蔭がさす、何か、もの思《おもい》か、悩《なやみ》が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く重《かさな》る花片《はなびら》に、曇《くもり》のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその隈《くま》から、幽《かすか》に、行違《ゆきちが》う人を誘うて時めく。薫《かおり》を籠《こ》めて、藤、菖蒲《あやめ》、色の調う一枚|小袖《こそで》、長襦袢《ながじゅばん》。そのいずれも彩糸《いろいと》は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの靡《なび》くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、痩《や》せぎすな美しい女《ひと》に、――今のを、ト言掛けると、婦人《おんな》は黙って頷《うなず》いた。
 が、もう打頷く咽喉《のど》の影が、半襟の縫の薄紅梅《うすこうばい》に白く映る。……
 あれ見よ。この美しい女《ひと》は、その膚《はだえ》、その簪《かんざし》、その指環《ゆびわ》の玉も、とする端々|透通《すきとお》って色に出る、心の影がほのめくらしい。
「ここだ、この音なんだよ。」
 婦人《おんな》は同伴《つれ》の男にそう言われて、時に頷いたが、傍《かたわら》でこれを見た松崎と云う、絣《かすり》の羽織で、鳥打を被《かぶ》った男も、共に心に頷いたのである。
「成程これだろう。」
 但し、松崎は、男女《なんにょ》、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸《かめいど》へ詣《もう》でた帰途《かえり》であった。
 住居《すまい》は本郷。
 江東橋《こうとうばし》から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌《くさもえ》の川通りを陽炎《かげろう》に縺《もつ》れて来て、長崎橋を入江町に掛《かか》る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。
 松崎は、橋の上に、欄干に凭《もた》れて、しばらく彳《たたず》んで聞入ったほどである。
 ちゃんちきちき面白そうに囃《はや》すかと思うと、急に修羅太鼓《しゅらだいこ》を摺鉦《すりがね》交《まじ》り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中《まちなか》で、屋台に山形の段々染《だんだらぞめ》、錣頭巾《しころずきん》で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋《あめや》の爺様《じさま》が、皺《しわ》くたのまくり手で、人寄せにその鉦《かね》太鼓を敲《たた》いていたのを、ちっと前《さき》に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込《ひっこ》む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士《まご》は銜煙管《くわえぎせる》で、しゃんしゃんと轡《くつわ》が揺れそうな合方となる。
 絶えず続いて、音色《ねいろ》は替っても、囃子《はやし》は留まらず、行交《ゆきか》う船脚は水に流れ、蜘蛛手《くもで》に、角《つの》ぐむ蘆《あし》の根を潜《くぐ》って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽《は》の上になり下になり、陽炎《かげろう》に乗って揺れながら近づいて、日当《ひあたり》の橋の暖い袂《たもと》にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退《の》いて、
 ――おいで、おいで――
 と招いていそうで。
 手に取れそうな近い音。
 はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの傾《かたが》り燕、一羽気まぐれに浮いた鴎《かもめ》が、どこかの手飼いの鶯《うぐいす》交りに、音を捕うる人心《ひとごころ》を、はッと同音に笑いでもする気勢《けはい》。
 春たけて、日遅く、本所は塵《ちり》の上に、水に浮《うか》んだ島かとばかり、
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