都を離れて静《しずか》であった。
 屋根の埃《ほこり》も紫雲英《げんげ》の紅《くれない》、朧《おぼろ》のような汽車が過《よ》ぎる。
 その響きにも消えなかった。

       二

 松崎は、――汽車の轟《とどろ》きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然《ひらり》と軽く体を躱《か》わす、形のない、思いのままに勝手な音《ね》の湧出《わきい》ずる、空を舞繞《まいめぐ》る鼓に翼あるものらしい、その打囃《うちはや》す鳴物が、――向って、斜違《すじかい》の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立《こだち》の松を洩《も》れて、朱塗《しゅぬり》の堂の屋根が見える、稲荷様《いなりさま》と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。
 けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静《ねしずま》ったように鎖《とざ》してあった。
 いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい響《ひびき》に乗って、駅と書いた本所|停車場《ステイション》の建札も、駅《うまや》と読んで、白日、菜の花を視《なが》むる心地。真赤《まっか》な達磨《だるま》が逆斛斗《さかとんぼ》を打った、忙がしい世の麺麭屋《パンや》の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道《たんぼみち》でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。
 空《あ》いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。
 乗るわ、降りるわ、混合《こみあ》う人数《にんず》の崩るるごとき火水の戦場往来の兵《つわもの》には、余り透いて、相撲最中の回向院《えこういん》が野原にでもなったような電車の体《てい》に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分|歩行《ある》き廻った草臥《くたびれ》も交って、松崎はトボンと立つ。
 例の音は地《じ》の底から、草の蒸さるるごとく、色に出《い》で萌《も》えて留まらぬ。
「狸囃子《たぬきばやし》と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
「あら、嘘ばっかり。」
 ちょうどそこに、美しい女《ひと》と、その若紳士が居合わせて、こう言《ことば》を交わしたのを松崎は聞取った。
 さては空音《そらね》ではないらしい。
 若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の蘆《あし》、足洗い屋敷、埋蔵《うめぐら》の溝《どぶ》、小豆婆《あずきばば》、送り提燈《ぢょうちん》とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。
 言った方も戯《たわむれ》に、聞く女《ひと》も串戯《じょうだん》らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説《いいつたえ》を、夢のように思出した。
 興ある事かな。
 日は永し。
 今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙《ひま》な医師《いしゃ》と一般、仕事に悩んで持余《もてあま》した身体《からだ》なり、電車はいつでも乗れる。
 となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中《うち》にも、囃子の音が、間近に、判然《はっきり》したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
 その上、世を避けた仙人が碁《ご》を打つ響きでもなく、薄隠《すすきがく》れの女郎花《おみなえし》に露の音信《おとず》るる声でもない……音色《ねいろ》こそ違うが、見世《みせ》ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
 向って日南《ひなた》の、背後《うしろ》は水で、思いがけず一本の菖蒲《あやめ》が町に咲いた、と見た。……その美しい女《ひと》の影は、分れた背中にひやひやと染《し》む。……
 と、チャンチキ、チャンチキ、嘲《あざ》けるがごとくに囃す。……
 がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行《ある》き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。

       三

 片側はどす黒い、水の淀《よど》んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵《むしろ》やら、炭やら、薪《まき》やら、その中を蛇が這《は》うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
 あの鼠が太鼓をたたいて、鼬《いたち》が笛を吹くのかと思った。……人通り全然《まるで》なし。
 片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合《つなぎあ》わせた小家《こいえ》続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉《からす》も居《お》らなければ犬も居らぬ。縄暖簾《なわのれん》も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽|歩行《ある》いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
 太陽《ひ》はたけなわに白い。
 颯《さっ》と、のんびりした雲から落《おち》かかって、目に真蒼《まっさお》に映った
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