。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」
「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」
 と幕が動くように向うで言った。
 松崎は、思わず紳士と目を見合った。小児《こども》なぞは眼中にない、男は二人のみだったから。
 美しい女《ひと》は、かえって恐れげもなくこう言った。
「ああ、分りました、そしてお前さんは?」
「いろいろの魂を瓶《かめ》に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」
「ええ、どうぞ。」
 と少々《わかわか》しいのが、あわれに聞えた。
「そこへ……髪結《かみゆい》が一人出るわいの。」
 松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。
「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。
 その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。
 もうもう今までとてもな、腹の汚《きたな》い、慾《よく》に眼《まなこ》の眩《くら》んだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮《ぐれん》、大紅蓮、……」
 ああ、可厭《いや》な。
「阿鼻焦熱《あびしょうねつ》の苦悩《くるしみ》から、手足がはり、肉《み》を切《きり》こまざいた血の池の中で、悶《もだ》え苦《くるし》んで、半ば活《い》き、半ば死んで、生きもやらねば死にも遣《や》らず、死にも遣らねば生きも遣らず、呻《うめ》き悩んでいた所じゃ。
 また万に一つもと、果敢《はかな》い、細い、蓮《はす》の糸を頼んだ縁は、その話で、鼠の牙《きば》にフッツリと食切られたが、……
 ドンと落ちた穴の底は、狂気《きちがい》の病院|入《いり》じゃ。この段替ればいの、狂乱の所作《しょさ》じゃぞや。」
 と言う。風が添ったか、紙の幕が、煽《あお》つ――煽つ。お稲は言《ことば》につれて、すべて科《しぐさ》を思ったか、振《ふり》が手にうっかり乗って、恍惚《うっとり》と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。……

       二十二

「どうするの、それから。」
 細い、が透《とお》る、力ある音調である。美しい女《ひと》のその声に、この折から、背後《うしろ》のみ見返られて、雲のひだ染《にじ》みに蔽《おお》いかかる、桟敷裏《さじきうら》とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。
 舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻《さっき》の編笠を被《かぶ》った鴉《からす》ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団《ひとかたまり》残って、底に幽《かすか》に蒼空《あおぞら》の見える……遥《はる》かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途《さき》から、黒雲を背後《うしろ》に曳《ひ》いて襲《おそ》い来るごとく見て取られた。
 それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を覗《のぞ》く。
 いつの間にか帰って来て、三人に床几《しょうぎ》を貸した古女房も交って立つ。
 彼処《かしこ》に置捨てた屋台車が、主《ぬし》を追うて自ら軋《きし》るかと、響《ひびき》が地を畝《うね》って、轟々《ごろごろ》と雷《らい》の音。絵の藤も風に颯《さっ》と黒い。その幕の彼方《かなた》から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌《しゃべ》る。……
「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死《くるいじに》に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属《うからやから》の余所《よそ》で見る眼《まなこ》には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛《まつげ》を黒う塞《ふさ》いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵《ちり》も据《すわ》らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩《や》せもせず、苦患《くげん》も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡《うち》の苦痛《くるしみ》はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」
「そして、後は、」
 と美しい女《ひと》は、白い両手で、確《しか》と紫の襟を圧《おさ》えた。
「死骸になっての、空蝉《うつせみ》の藻脱けた膚《はだ》は、人間の手を離れて牛頭《ごず》馬頭《めず》の腕に上下から掴《つか》まれる。や、そこを見せたい。その娘《こ》の仮髪《かつら》ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も切《きれ》もかからぬ膚を黒く輝く、吾《あ》が天女の後光のように包むを見さい。末は踵《かかと》に余って曳《ひ》くぞの。
 鼓草《たんぽぽ》の花の散るように、娘の身体《からだ》は幻に消えても、その黒髪は、金輪《こんりん》、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年《ももと
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