父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。
「まあ、」
 と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「串戯《じょうだん》じゃないわ、人の気も知らないで。」
「無論、串戯ではないがね、女言|濫《みだ》りに信ずべからず、半分は嘘だろう。」
「いいえ!」
「まあさ、お前の前だがね、隣の女房《かみさん》というのが、また、とかく大袈裟《おおげさ》なんですからな。」
「勝手になさいよ、人に散々|饒舌《しゃべ》らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」
 と乙女椿に頬摺《ほおず》りして、鼻紙に据えて立つ……
 実はそれさえ身に染みた。
 床の間にも残ったが、と見ると、莟《つぼみ》の堅いのと、幽《かすか》に開いた二輪のみ。
「ちょっと、お待ち。」
「何《なあに》、」と襖《ふすま》に手を掛ける。
「でも、少し気になるよ、肝心、焦《こが》れ死《じに》をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」
「先方《さき》でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、確《たしか》に結婚したつもりだって――」
 春狐はふと黙ってそれには答えず……
「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」
「流しましょうね、ちょっと拝んで、」
 と二階を下りる[#「 と二階を下りる」は底本では「「と二階を下りる」]、……その一輪の朱鷺色《ときいろ》さえ、消えた娘の面影に立った。
 が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、門《かど》に立って、恍惚《うっとり》空を視《なが》めた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。
 同じその瞳である。同じその面影である。……
 ――お稲です――
 と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、凝《なぞら》えたにせよ、向って姿見の真蒼《まっさお》なと云う行燈《あんどん》があろうではないか。
 美しい女《ひと》は屹《き》と紳士を振向いた。
「貴方《あなた》。」
 若い紳士は、杖《ステッキ》を小脇に、細い筒袴《ずぼん》で、伸掛《のしかか》って覗《のぞ》いて、
「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と中折《なかおれ》の廂《ひさし》で押《おし》つけるように言った。
 羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、真向《まんむ》きに直った顔を見よ。
「いいえ、私はお稲です。」
 紳士は、射られたように、縁台へ退《さが》った。
 美しい女の褄《つま》は、真菰《まこも》がくれの花菖蒲《はなあやめ》、で、すらりと筵《むしろ》の端に掛《かか》った……
「ああ、お稲さん。」
 と、あたかもその人のように呼びかけて、
「そう。そして、どうするの。」
 お稲は黙って顔を見上げた。
 小さなその姿は、ちょうど、美しい女《ひと》が、脱いだ羽織をしなやかに、肱《ひじ》に掛けた位置に、なよなよとして見える。
「止《よ》せ!品子さん。」
「可《い》いわ。」
「見っともないよ。」
「私は構わないの。」

       二十一

「ねえ、お稲さん、どうするの。」
 とまた優しく聞いた。
「どうするって、何、小母さん。」
 役者は、ために羽織を脱いだ御贔屓《ごひいき》に対して、舞台ながらもおとなしい。
「あのね、この芝居はどういう脚色《しくみ》なの、それが聞きたいの。」
「小母さん見ていらっしゃい。」
 と云った。
 その間《うち》も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。
「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」
 雲にも、人にも、松崎は胸が轟《とどろ》く。
「待ってて下さい。」
 と見返りもしないで、
「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児《こ》だから。」
「だって、言ったって、芝居だって、同一《おなじ》なんですもの、見ていらっしゃい。」
「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可《いけな》い。」
 お稲は黙って頭《かぶり》を掉《ふ》る。
「まあ、強情だわねえ。」
「強情ではござりませぬ。」
 と思いがけず幕の中から、皺《しわ》がれた声を掛けた。美しい女《ひと》は瞳を注いだ、松崎は衝《つ》と踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――紅蓮《ぐれん》大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一《おなじ》であった。
「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女《あなた》がお急ぎであらばの、衣裳《いしょう》をお返し申すが可《い》い。」
 と半ば舞台に指揮《さしず》をする。
「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです
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