「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないように躾《たしな》んでいたんだわね――そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。
 ですから、病院へ入ったあとで、針箱の抽斗《ひきだし》にも、畳紙《たとうがみ》の中にも、皺《しわ》になった千代紙一枚もなく……油染《あぶらじ》みた手柄|一掛《ひとかけ》もなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。惜《おし》まれる娘《こ》は違うわね。
 ぐっと取詰《とりつ》めて、気が違った日は、晩方、髪結《かみゆい》さんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に紫陽花《あじさい》が咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見の蒼《あお》さったら、月もささなかったって云うんですがね。――そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ――
 髪結さんが、隣家《となり》の女房《かみさん》へ談話《はなし》なんです。
 同一《おなじ》のが廻りますからね。
 隣家《となり》と、お稲ちゃん許《とこ》と、同一《おなじ》のは、そりゃ可《い》いけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんの家《うち》が、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、余所《よそ》からお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……可《よ》ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」
「ああ、悪い。」
 と春狐は聞きながら、眉を顰《ひそ》めた。
 同じように、打顰《うちひそ》んで、蘭菊は、つげの櫛で鬢《びん》の毛を、ぐいと撫でた。
「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を一条《ひとすじ》ずつ取って来て、内証《ないしょ》で人のと人のと結び合わせて蔵《しま》っておいて御覧なさい。
 世間は直ぐに戦争《いくさ》よりは余計乱れると、私、思うんですよ。
 お稲さんは黙って俯向《うつむ》いていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の平打《ひらうち》を挿込んだ時、先が突刺《つっささ》りやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した発奮《はずみ》で、飛石へカチリと落ちました。……
 ――口惜《くや》しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃《ねぞろ》え自慢で緊《し》めたばかりの元結《もっとい》が、プッツリ切れ、背中へ音がして颯《さっ》と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。
 でも、髪結さんは、あの娘《こ》の髪の事ばかり言って惜《おし》がってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟《やわらか》な、艶《つや》の可《い》い髪は見た事がないってね、――死骸《しがい》を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」
「ああ……聞いても惜《おし》い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」
 春狐は思わず、詰《なじ》るがごとく急込《せきこ》んで火鉢を敲《たた》いた。
「ねえ、私にだって分りませんわ。」
「で、どうしたんだい。」
「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出《かりだ》すの、手が掛《かか》るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。
 賺《すか》しても、叱っても。
 しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんも初《はじめ》から首をお傾《ま》げだったそうですよ。
 まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって――」
 と薄《うっす》りした目のうちが、颯《さっ》とさめると、ほろりとする。

       二十

 春狐は肩を聳《そびや》かした。
「なったんじゃない……葬式《ともらい》にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒《ふらち》だよ。妹を餌《えさ》に、鰌《どじょう》が滝登りをしようなんて。」
「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可《いけ》ないっていう時分から、酷《ひど》く何かを気にしてさ。嬰児《あかんぼ》が先に死ぬし、それに、この葬式《ともらい》の中だ、というのに、嫂《あによめ》だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」
「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中|鏖殺《みなごろし》に願いたい。ついでにお
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