ない事、夜が更けた、色艶《いろつや》は。
 そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと〆《し》めるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんが咎《とが》めた時、――私はお母《っか》さんの許《とこ》へ行くの――
 そう云ってね、枕許《まくらもと》へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、現《うつつ》で正体がないんですとさ。
 思詰《おもいつ》めたものだわねえ。」

       十八

「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密《そっ》と箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けたんですよ。」
「法学士の見合いの写真?……」
「いいえ、そんなら可《い》いけれど、短刀を密《そっ》と持ったの、お母さんの守護刀《まもりがたな》だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢《としごろ》で可愛い中にも品の可《よ》かった事を御覧なさい。」
「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」
「あれ、」
 と見向く、と朱鷺色《ときいろ》に白の透《すか》しの乙女椿《おとめつばき》がほつりと一輪。
 熟《じっ》と視《み》たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう掌《てのひら》に据えて俯向《うつむ》いた。
 隙間もる冷い風。
「ああ、四辻がざわざわする、お葬式《ともらい》が行くんですよ。」
 と前掛の片膝、障子へ片手。
「二階の欄干《てすり》から見る奴《やつ》があるものか。見送るなら門《かど》へお出な。」
「止《よ》しましょう、おもいの種だから……」
 と胸を抱いて、
「この一輪は蔭ながら、お手向《たむ》けになったわね。」と、鼻紙へ密《そっ》と置くと、冷い風に淡い紅《くれない》……女心はかくやらむ。
 窓の障子に薄日が映《さ》した。
「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」
「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵《しま》って、錠《じょう》をおろして、兄さんがその鍵《かぎ》を握って寝たんだっていうんですもの。」
「ははあ、重役の忰《せがれ》に奉って、手繰りつく出世の蔓《つる》、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」
「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在《いで》だったかと思うと、そうじゃないの……精々《せっせ》裁縫《おしごと》をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗《ひのし》を掛けて、ちゃんと蔵《しま》って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経《た》つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児《あかんぼ》のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」
「おやおや、兄の嬰児《あかんぼ》の洗濯かね。」
「嫂《あによめ》というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの傍《そば》へは寄附《よッつ》けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう了簡《りょうけん》ですかね、兄さんが容色《きりょう》望みで娶《と》ったっていうんですから……
 小児《こども》は二人あるし、家《うち》は大勢だし、小体《こてい》に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お守《も》りから何から、皆《みんな》、お稲ちゃんがしたんだわ。」
「ははあ、その児だ……」
 ともすると、――それが夕暮が多かった――嬰児《あかんぼ》を背負《おぶ》って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、清《すずし》い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、蝙蝠《こうもり》も柳も無しに、何を見るともなく、熟《じっ》と暮れかかる向側《むこうがわ》の屋根を視《なが》めて、其家《そこ》の門口《かどぐち》に彳《たたず》んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
 面影は、その時の見覚えで。
 出窓の硝子越《がらすごし》に、娘の方が往《ゆき》かえりの節などは、一体|傍目《わきめ》も触《ふ》らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行《ある》く振《ふり》、打水にも褄《つま》のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。
 が、思い当る……葬式《とむらい》の出たあとでも、お稲はその身の亡骸《なきがら》の、白い柩《ひつぎ》で行《ゆ》く状《さま》を、あの、門《かど》に一人立って、さも恍惚《うっとり》と見送っているらしかった。

       十九

 女房は語《かたり》続けた―
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