見える。
「難有《ありがと》う、」
「奥さん難有う。」
互に、青月代と饂飩屋が、仮髪《かつら》を叩いて喜び顔。
雪女の、その……擬《なぞら》えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい女《ひと》は、と視《なが》めて、
「島田も可《い》いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯《しごき》を前帯じゃどう。遊女《おいらん》のようではなくって、」
「構わないの、お稲さんが寝衣《ねまき》の処だから、」
「ああ、ちょっと。」
と美しい女《ひと》が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込《ひっこ》む。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」
と言う。紳士を顧みた美しい女《ひと》の睫《まつげ》が動いて、目瞼《まぶた》が屹《きっ》と引緊《ひきしま》った。
「何、稲荷《いなり》だよ、おい、稲荷だろう。」
紳士も並んで、見物の小児《こども》の上から、舞台へ中折《なかおれ》を覗《のぞ》かせた。
「ねえ、この人の名は?……」
黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形《たておやま》の見識を取ったか、島田の一さえ、端然《きちん》と済まして口を利こうとしないので、美しい女《ひと》はまた青月代に、そう訊《き》いた。
「嵐お萩ッてえの……東西々々。」
と飜然《ひらり》と隠れる。
「芸名《げいみょう》ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」
と美しい女《ひと》は、やや急込《せきこ》んで言って、病身らしく胸を圧《おさ》えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿《やさすがた》、雲を出《い》でたる月かと視《み》れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に艶《つや》ある青柳《あおやぎ》の枝。
春の月の凄《すご》きまで、蒼青《まっさお》な、姿見の前に、立直って、
「お稲です。」
と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に朧《おぼろ》なものではなかった。
十六
舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――俳優《やくしゃ》は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏《うつむきふ》している間に、玉の曇《くもり》を拭《ぬぐ》ったらしい。……眉は鮮麗《あざやか》に、目はぱっちりと張《はり》を持って、口許《くちもと》の凜《りん》とした……やや強《きつ》いが、妙齢《としごろ》のふっくりとした、濃い生際《はえぎわ》に白粉《おしろい》の際立たぬ、色白な娘のその顔。
松崎は見て悚然《ぞっ》とした……
名さえ――お稲です――
肖《に》たとは迂哉《おろか》。今年|如月《きさらぎ》、紅梅に太陽《ひ》の白き朝、同じ町内、御殿町《ごてんまち》あたりのある家の門を、内端《うちわ》な、しめやかな葬式《とむらい》になって出た。……その日は霜が消えなかった――居周囲《いまわり》の細君女房連が、湯屋でも、髪結《かみゆい》でもまだ風説を絶《たや》さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。
「私も今はじめて聞いて吃驚《びっくり》したの。」
その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上《かけあが》り、御注進と云う処を、鎧《よろい》が縞《しま》の半纏《はんてん》で、草摺《くさずり》短《みじか》な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は飜《ひるがえ》さず、すなわち尋常に黒繻子《くろじゅす》の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……
髪も櫛巻《くしまき》、透切《すきぎ》れのした繻子の帯、この段何とも致方《いたしかた》がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊《らんぎく》とでも奢《おご》っておけ。
春狐は小机を横に、座蒲団《ざぶとん》から斜《ななめ》になって、
「へーい、ちっとも知らなかった。」
「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家《となり》の女房《かみ》さんが立って、通《とおり》の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式《ともらい》が出る所だって、他家《よそ》の娘《こ》でも最惜《いとし》くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日《しばらく》姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘《こ》が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗《のぞ》きだっけがね。」
苦笑いで、春狐子。
「余計な事を言いなさんな、……しかし惜《おし》いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」
「うっかり下町にだってあるもんですか。」
「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃《ほ》めない奴《やつ》さ、顔がちっと強《きつ》すぎる、何のってな。」
「ええ、それは廂髪《ひさしがみ》でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつ
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