、両方を竹で張った、真黒《まっくろ》な布の一張《ひとはり》、筵《むしろ》の上へ、ふわりと投げて颯《さっ》と拡げた。
と見て、知りつつ松崎は、俄然《がぜん》として雲が湧《わ》いたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から遠路《とおみち》を掛けた当日。麗《うららか》さも長閑《のどか》さも、余り積《つも》って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨《にわかあめ》を憂慮《きづかわ》ぬではなかった処。
彼方《むこう》の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路|遥《はる》かな思いがある。
また、余所《よそ》は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の裡《うち》には、本所の空一面に漲《みなぎ》らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。
暗い舞台で、小さな、そして爺様《じいさま》の饂飩屋は、おっかな、吃驚《びっくり》、わなわな大袈裟《おおげさ》に震えながら、
「何に映る……私《わし》が顔だ、――行燈《あんどん》か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上|手前《てめえ》に口を利かれては叶《かな》わねえ。何分頼むよ。……面《つら》の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って遁《に》げる何十年|以来《このかた》の古馴染《ふるなじみ》だ。
馴染がいに口を利くなよ、私《わし》が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」
……と背の低いのが、滅入込《めりこ》みそうに、大《おおき》な仮髪《かつら》の頸《うなじ》を窘《すく》め、ひッつりそうな拳《こぶし》を二つ、耳の処へ威《おど》すがごとく、張肱《はりひじ》に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。
で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、
「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」
と熟《じっ》と覗《のぞ》く。
途端に、沈んだが、通る声で、
「私……行燈だよ。」
「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退《とびの》く。
十一
この古行燈が、仇《あだ》も情《なさけ》も、赤くこぼれた丁子《ちょうじ》のごとく、煤《すす》の中に色を籠《こ》めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。
饂飩屋は吃驚《びっくり》の呼吸を引いて、きょとんとしたが
「俺《おいら》あ可厭《いや》だぜ。」と押殺した低声《こごえ》で独言《ひとりごと》を云ったと思うと、ばさりと幕摺《まくず》れに、ふらついて、隅から蹌踉《よろ》け込んで見えなくなった。
時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しい女《ひと》である事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へ遁《に》げた小児《こども》の状《さま》の可笑《おかし》さに、莞爾《にっこり》、笑《えみ》を含んだ、燃ゆるがごときその女《ひと》の唇を見た。
「つい言ッちまったのよ。」
と紳士を見向く。
「困った人だね、」
と杖《ステッキ》を取って、立構えをしながら、
「さあ、行こうか。」
「可《い》いわ、もうちっと……」
「恐怖《こわ》いよう。」
と子守の袂《たもと》にぶら下った小さな児が袖を引張《ひっぱ》って言う。
「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は背《せな》の子を揺《ゆす》り上げた。
舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて皆《みんな》笑った……小さいのが二側《ふたかわ》三側《みかわ》、ぐるりと黒く塊《かたま》ったのが、変にここまで間を措《お》いて、思出したように、遁込《にげこ》んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。
「東西、東西。」
青月代《あおさかやき》が、例の色身《いろみ》に白い、膨《ふっく》りした童顔《わらわがお》を真正面《まっしょうめん》に舞台に出て、猫が耳を撫《な》でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間《ひとこま》が藍《あい》を濃く真青《まっさお》に塗ってあった。
行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を蔽《おお》うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい女《ひと》と向合《むきあわ》せに据えたので、雪なす面《おもて》に影を投げて、媚《なまめ》かしくも凄《すご》くも見える。
青月代は飜然《ひらり》と潜《くぐ》った。
それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが顕《あらわ》れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に描《
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