に、寂しく、遠方《おちかた》を幽《かすか》に、――そして幽冥《ゆうめい》の界《さかい》を暗《やみ》から闇へ捜廻《さがしまわ》ると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた――仔細《しさい》あって忘れられぬ人の名なのであるから。――
「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」
「はいはい、いいえ、貴下《あなた》、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古《けいこ》だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」
 で手を揉《も》み手を揉み、正面《まとも》には顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた藍色《あいいろ》の半纏《はんてん》に、茶の着もので、紺足袋に雪駄穿《せったばき》で居たのである。
「馬鹿にしやがれ。へッ、」
 と唐突《だしぬけ》に毒を吐いたは、立睡《たちねむ》りで居た頬被りで、弥蔵《やぞう》の肱《ひじ》を、ぐいぐいと懐中《ふところ》から、八ツ当りに突掛《つっか》けながら、
「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いて呆《あき》れら。おはいはい、襟許《えりもと》に着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。衣類《きるい》に脚が生えやしめえし……草臥《くたび》れるんなら、こっちが前《さき》だい。服装《みなり》で価値《ねだん》づけをしやがって、畜生め。ああ、人間|下《さが》りたくはねえもんだ。」
 古女房は聞かない振《ふり》で、ちょこちょこと走って退《の》いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして引返《ひっかえ》したのは町の方。
 そこに、先刻《さっき》の編笠|目深《まぶか》な新粉細工が、出岬《でさき》に霞んだ捨小舟《すておぶね》という形ちで、寂寞《じゃくまく》としてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこ行《ゆ》く。
 ト頬被りは、じろりと見遣って、
「ざまあ見ろ、巫女《いちこ》の宰取《さいとり》、活《い》きた兄哥《あにい》の魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物の群《むれ》を離れた。
 ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と竹箸《たけばし》を構えた薄気味の悪い、黙然《だんまり》の屑屋《くずや》は、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴を覗《のぞ》いたが、それ切りフイと居なくなった。……
 いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。

       十

「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
 少々舞台に間が明いて、魅《つま》まれたなりの饂飩小僧《うどんこぞう》は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
 幕の端《はじ》から、以前の青月代《あおさかやき》が、黒坊《くろんぼ》の気か、俯向《うつむ》けに仮髪《かつら》ばかりを覗《のぞ》かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視《なが》められる。
「まだじゃねえか、まだお前、その行燈《あんどん》がかがみにならねえよ……科《しぐさ》が抜けてるぜ、早く演《や》んねえな。」
 と云って、すぽりと引込《ひっこ》む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹《でこぼこ》する蹈台《ふみだい》の腰を乗出す。
 同じ思いか、面影《おもかげ》も映しそうに、美しい女《ひと》は凝《じっ》と視《み》た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身《そりみ》ながらぐったりと凭掛《よりかか》った、杖《ステッキ》の柄を手袋の尖で突いたものなり。
 饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶《あいさつ》する。
「光栄《おいで》なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷《げんとくいなり》様は、御身分柄、こんな悪戯《いたずら》はなさりません。狸か獺《かわうそ》でござりましょう。迷児の迷児の、――と鉦《かね》を敲《たた》いて来やがって饂飩を八杯|攫《さ》らいました……お前さん。」
 と滑稽《おどけ》た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌《しゃべ》ったが、
「や、一言《いちごん》も、お返事なしだね、黙然坊《だんまりぼう》様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――私《わし》の顔だ――道理で、兄弟分だと頼母《たのも》しかったに……宙に流れる川はなし――七夕《たなばた》様でもないものが、銀河《あまのがわ》には映るまい。星も隠れた、真暗《まっくら》、」
 と仰向《あおむ》けに、空を視《み》る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀|越《ごし》、幕の内か潜《くぐ》らして
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