と、も一つかんで、差配は鼻紙を袂《たもと》へ落す。
「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お怪我《けが》がなければ可《よ》うございます。」
「賽《さい》の河原は礫原《こいしはら》、石があるから躓《つまず》いて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。
「何を言わっしゃります。」
「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代が傍《そば》から言った。
「お前様も。死んだ迷児《まいご》という事が、世の中にござりますかい。」
「六道の闇《やみ》に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」
「や、そんなら、お前様方は、亡者《もうじゃ》をお捜しなさりますのか。」
「そのための、この白張提灯《しらはりぢょうちん》。」
 と青月代が、白粉《おしろい》の白《しろ》けた顔を前へ、トぶらりと提げる。
「捜いて、捜いて、暗《やみ》から闇へ行く路じゃ。」
「ても……気味の悪い事を言いなさる。」
「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」
 と頭《かしら》は鬼のごとく棒を突出す。
 饂飩屋は、あッと尻餅。
 引被《ひっかぶ》せて、青月代が、
「ともに冥途《めいど》へ連行《つれゆ》かん。」
「来《きた》れや、来れ。」と差配《おおや》は異変な声繕《こわづくろい》。
 一堪《ひとたま》りもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん髷仮髪《まげかつら》が、がさがさと鳴る。
「占めたぞ。」
「喰遁《くいに》げ。」
 と囁《ささ》き合うと、三人の児《こ》は、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。
 ――迷児の、迷児の、お稲さんやあ――
 描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、閃々《きらきら》と金糸のきらめく、美しい女《ひと》の半襟と、陽炎に影を通わす、居周囲《いまわり》は時に寂寞《ひっそり》した、楽屋の人数《にんず》を、狭い処に包んだせいか、張紙幕《びらまく》が中ほどから、見物に向いて、風を孕《はら》んだか、と膨れて見える……この影が覆蔽《かぶさ》るであろう、破筵《やれむしろ》は鼠色に濃くなって、蹲《しゃが》み込んだ児等《こども》の胸へ持上って、蟻《あり》が四五疋、うようよと這《は》った。……が、なぜか、物の本の古びた表面《おもて》へ、――来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。
 見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った差配《おおや》の言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声を助《す》けたらしく聞えたのであった。
 見物の児等は、神妙に黙って控えた。
 頬被《ほおかぶり》のずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……
 饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの行燈《あんどん》も、草紙の絵ではない。
 蟻は隠れたのである。

       九

「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」
 と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、茫然《ぼんやり》する。
 美しい女《ひと》と若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方|木賃宿《きちんやど》の羽目板の方を見向いたのを、――無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。
 そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした円髷《まるまげ》を俯向《うつむ》けに、揉手《もみて》でお叩頭《じぎ》をする古女房が一人居た。
「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとは増《まし》でございます。」
 と手拭《てぬぐい》で、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で――一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。
「いや、俺《おれ》たちは、」
 若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い退《の》けそうにした。が、美しい女《ひと》が、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。
「難有《ありがと》う。」
 渠《かれ》も斉《ひと》しく並んだのである。
「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に饒舌《しゃべ》りながら、踏台を提げて、小児《こども》たちの背後《うしろ》を、ちょこちょこ走り。で、松崎の背後《うしろ》へ廻る。
「貴方《あなた》様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」
「恐縮ですな。」
 かねて期《ご》したるもののごとく猶予《ため》らわず腰を落着けた、……松崎は、美しい女《ひと》とその連《つれ》とが、去る去らないにかかわらず、――舞台の三人が鉦《かね》をチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。
 声々に、可哀《あわれ》
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