しさうに、懐中を開《あ》け、袂《たもと》を探した。それでも鞘《さや》へは納めないで、大刀《だんびら》を、ズバツと畳《たたみ》に突刺《つっさ》したのである。
 兇器《きょうき》が手を離るゝのを視《み》て、局は渠《かれ》が煙草入《たばこいれ》を探す隙《すき》に、そと身を起して、飜然《ひらり》と一段、天井の雲に紛《まぎ》るゝ如く、廊下に袴《はかま》の裙《すそ》が捌《さば》けたと思ふと、武士《さむらい》は武《む》しや振《ぶ》りつくやうに追縋《おいすが》つた。
「ほ、ほ、ほ。」
 と、局は、もの優しく微笑《ほほえ》んで、また先の如く手を取つて、今度は横斜違《よこはすかい》に、ほの暗い板敷《いたじき》を少時《しばし》渡ると、※[#「火+發」、193−13]《ぱっ》ともみぢの緋の映る、脇廊下《わきろうか》の端へ出た。
 言ふまでもなく、今は疾《と》くに、資治卿は影も見えない。
 もみぢが、ちら/\とこぼれて、チチチチと小鳥が鳴く。
「千鳥《ちどり》、千鳥。……」
 と※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たく口誦《くちずさ》みながら、半《なか》ば渡ると、白木《しらき》の階《きざはし》のある処《ところ》。
「千鳥、千鳥、あれ/\……」
 と且《か》つ指《ゆびさ》し、且つ恍惚《うっとり》と聞きすます体《てい》にして、
「千鳥や、千鳥や。」
 と、やゝ声を高うした。
 向う前栽《せんざい》の小縁《こえん》の端へ、千鳥と云ふ、其の腰元《こしもと》の、濃い紫《むらさき》の姿がちらりと見えると、もみぢの中をくる/\と、鞠《まり》が乱れて飛んで行《ゆ》く。
 恰《あたか》も友呼ぶ千鳥の如く、お庭へ、ぱら/\と人影が黒く散つた。
 其時《そのとき》、お局《つぼね》が、階下へ導いて下《お》り状《ざま》に、両手で緊《しっか》と、曲《くせ》ものの刀《かたな》持つ方の手を圧《おさ》へたのである。
「うゝ、うゝむ。」
「あゝ、御番《ごばん》の衆、見苦しい、お目触《めざわ》りに、成ります。……括《くく》るなら、其の刀を。――何事も情《なさけ》が卿様《だんなさま》の思召《おぼしめし》。……乱心ものゆゑ穏便《おんびん》に、許して、見免《みのが》して遣《や》つてたも。」
 牛蒡《ごぼう》たばねに、引括《ひきくく》つた両刀を背中に背負《しょ》はせた、御番の衆は立ちかゝつて、左右から、曲者《くせもの》の手を引張つて遠ざかつた。
 吻《ほっ》と呼吸《いき》して、面《おもて》の美しさも凄《すご》いまで蒼白《あおじろ》く成りつつ、階《きざはし》に、紅《くれない》の袴《はかま》をついた、お局《つぼね》の手を、振袖《ふりそで》で抱いて、お腰元の千鳥は、震へながら泣いて居る。いまの危《あやう》さを思ふにつけ、安心の涙である。
 下々《しもじも》の口から漏《も》れて、忽《たちま》ち京中《きょうちゅう》洛中《らくちゅう》は是沙汰《これさた》だが――乱心ものは行方が知れない。

        二

「やあ、小法師《こほうし》。……」
 こゝで読者に、真夜中の箱根の山を想像して頂きたい。同時に、もみぢと、霧《きり》と、霜《しも》と、あの蘆《あし》の湖《こ》と、大空の星とを思ひ浮べて頂きたい。
 繰返して言ふが、文政《ぶんせい》初年|霜月《しもつき》十日の深夜なる、箱根の奥の蘆の湖の渚《なぎさ》である。
 霧は濃くかゝつたが、関所は然《さ》まで遠くない。峠《とうげ》も三島寄《みしまより》の渚に、憚《はばか》らず、ばちや/\と水音《みずおと》を立てるものがある。さみしさも静けさも、霜に星のきらめくのが、かち/\と鳴りさうなのであるから、不断の滝よりは、此の音が高く響く。
 鷺《さぎ》、獺《かわうそ》、猿《ましら》の類《たぐい》が、魚《うお》を漁《あさ》るなどとは言ふまい。……時と言ひ、場所と言ひ、怪《け》しからず凄《すさま》じいことは、さながら狼《おおかみ》が出て竜宮の美女たちを追廻《おいまわ》すやうである。
 が、耳も牙《きば》もない、毛坊主《けぼうず》の円頂《まるあたま》を、水へ逆《さかさま》に真俯向《まうつむ》けに成つて、麻《あさ》の法衣《ころも》のもろ膚《はだ》脱いだ両手両脇へ、ざぶ/\と水を掛ける。――恁《かか》る霜夜《しもよ》に、掻乱《かきみだ》す水は、氷の上を稲妻《いなずま》が走るかと疑はれる。
 あはれ、殊勝な法師や、捨身《しゃしん》の水行《すいぎょう》を修《しゅ》すると思へば、蘆《あし》の折伏《おれふ》す枯草《かれくさ》の中に籠《かご》を一個《ひとつ》差置《さしお》いた。が、鯉《こい》を遁《にが》した畚《びく》でもなく、草を刈《か》る代《しろ》でもない。屑屋《くずや》が荷《にな》ふ大形《おおがた》な鉄砲笊《てっぽうざる》に、剰《あまつさ》へ竹のひろひ箸
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