《ばし》をスクと立てたまゝなのであつた。
「やあ、小法師《こほうし》、小法師。」
もの幻の霧の中に、あけの明星の光明《こうみょう》が、嶮山《けんざん》の髄《ずい》に浸透《しみとお》つて、横に一幅《ひとはば》水が光り、縦に一筋《ひとすじ》、紫《むらさき》に凝《こ》りつつ真紅《まっか》に燃ゆる、もみぢに添ひたる、三抱余《みかかえあま》り見上げるやうな杉の大木《たいぼく》の、梢《こずえ》近い葉の中から、梟《ふくろう》の叫ぶやうな異様なる声が響くと、
「羽黒《はぐろ》の小法師ではないか。――小法師。」
と言ふ/\、枝葉《えだは》にざわ/\と風を立てて、然《しか》も、音もなく蘆の中に下立《おりた》つたのは、霧よりも濃い大山伏《おおやまぶし》の形相である。金剛杖《こんごうづえ》を丁《ちょう》と脇挟《わきばさ》んだ、片手に、帯の結目《むすびめ》をみしと取つて、黒紋着《くろもんつき》、袴《はかま》の武士《さむらい》を俯向《うつむ》けに引提《ひきさ》げた。
武士《ぶし》は、紐《ひも》で引《ひっ》からげて胸へ結んで、大小を背中に背負《しょ》はされて居る。卑俗な譬《たとえ》だけれど、小児《こども》が何とかすると町内を三|遍《べん》廻らせられると言つた形で、此が大納言の御館《みたち》を騒がした狂人であるのは言ふまでもなからう。
「おう、」
と小法師の擡《もた》げた顔の、鼻は鉤形《かぎなり》に尖《とが》つて、色は鳶《とび》に斉《ひと》しい。青黒《あおぐろ》く、滑々《ぬらぬら》とした背膚《せはだ》の濡色《ぬれいろ》に、星の影のチラ/\と映《さ》す状《さま》は、大鯰《おおなまず》が藻《も》の花を刺青《ほりもの》したやうである。
「これは、秋葉山《あきばさん》の御行者《おぎょうじゃ》。」
と言ひながら、水しぶきを立てて、身体《からだ》を犬ぶるひに振つた。
「御身《おみ》は京都の返りだな。」
「然《さ》れば、虚空《こくう》を通り掛《がか》りぢや。――御坊《ごぼう》によう似たものが、不思議な振舞《ふるまい》をするに依《よ》つて、大杉《おおすぎ》に足を踏留《ふみと》めて、葉越《はごし》に試みに声を掛けたが、疑ひもない御坊と視《み》て、拙道《せつどう》、胆《きも》を冷《ひや》したぞ。はて、時ならぬ、何のための水悪戯《みずいたずら》ぢや。悪戯《いたずら》は仔細ないが、羽《は》ぶしの怪我《けが》で、湖《うみ》に墜《お》ちて、溺《おぼ》れたのではないかと思うた。」
「はゝ。」
と事もなげに笑つて、
「いや、些《ち》と身に汚《けが》れがあつて、不精《ぶしょう》に、猫の面洗《つらあら》ひと遣《や》つた。チヨイ/\とな。はゝゝゝ明朝《あした》は天気だ。まあ休め。」
と法衣《ころも》の袖《そで》を通して言ふ。……吐《は》く呼吸《いき》の、ふか/\と灰色なのが、人間のやうには消えないで、両個《ふたつ》とも、其のまゝからまつて、ぱつと飛んで、湖の面《おもて》に、名の知れぬ鳥が乱れ立つ。
羽黒の小法師《こほうし》、秋葉の行者《ぎょうじゃ》、二個は疑《うたがい》もなく、魔界の一党、狗賓《ぐひん》の類属。東海、奥州、ともに名代《なだい》の天狗《てんぐ》であつた。
三
「成程《なるほど》、成程、……御坊《ごぼう》の方は武士《さむらい》であつた。」
行者が、どたりと手から放すと、草にのめつた狂人を見て、――小法師が言つたのである。
「然《さ》れば、此ぢや。……浜松の本陣から引攫《ひきさろ》うて持つて参つて、約束通り、京極、比野大納言殿の御館《おんやかた》へ、然《しか》も、念入りに、十二|間《けん》のお廊下へドタリと遣《や》つた。」
「おゝ御館《おやかた》では、藤の局《つぼね》が、我折《がお》れ、かよわい、女性《にょしょう》の御身《おんみ》。剰《あまつさ》へ唯《ただ》一人にて、すつきりとしたすゞしき取計《とりはから》ひを遊ばしたな。」
「ほゝう。」
と云つた山伏《やまぶし》は、真赤な鼻を撮《つま》むやうに、つるりと撫《な》でて、
「最早知つたか。」
「洛中《らくちゅう》の是沙汰《これさた》。関東一円、奥州まで、愚僧が一山《いっさん》へも立処《たちどころ》に響いた。いづれも、京方《きょうがた》の御為《おんため》に大慶《たいけい》に存ぜられる。此とても、お行者のお手柄だ、はて敏捷《すばや》い。」
「やあ、如何《いかが》な。すばやいは御坊ぢやが。」
「さて、其が過失《あやまり》。……愚僧、早合点《はやがてん》の先ばしりで、思ひ懸《が》けない隙入《ひまいり》をした。御身《おみ》と同然に、愚僧|等《ら》御司配《ごしはい》の命令《おおせ》を蒙《こうむ》り、京都と同じ日、先《ま》づ/\同じ刻限に、江戸城へも事を試みる約束であつたれば、千住《せんじゅ》の大橋《おおはし》、
前へ
次へ
全13ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング